『Murder of Childhood(邦題:なぜ少女ばかりねらったのか)』を読み終え、子どもを狙った性犯罪における社会の脆弱性と、脱本的な対策の実践と課題を学び、児童性虐待僕別への希望と絶望が入り乱れている。
本書は、30年で数百人規模の幼女を性的に虐待し続けた男ロバート・ブラック(Robert Black)と2年間にわたる対話を通じ、性犯罪における社会の脆弱性を浮き彫りにし、抜本的な対策を実践し続けたレイ・ワイヤ(Ray Wyre)氏による名著。
レイ・ワイヤ氏
レイ・ワイヤ氏(1951–2008)は性加害者の治療における先駆けとして知られているが、刑務所での保護観察官としての仕事により、ロバート・ブラックを含むイギリスで最も危険とされている犯罪者らと関わることになったのがきっかけだった。
再犯率が99パーセントとも推定されている性犯罪者を、児童施設も、警察も、司法も、刑務所も適切に対処せず、再び社会に野放しにし、性被害者および性加害者を増産しているのが、性犯罪の実態である。
この悪循環を根っこから対処すべくレイ・ワイヤ氏は、1988年に英国バーミンガムにて初めて、性犯罪者のための居住治療センターであるグレイスウェルクリニックを設立。
しかし「犯罪者の更生が子どもたちの安全を守るために不可欠」ということが理解できない市民や、その無知を利用しようとした政治家たちによる反対運動によって、閉鎖に追いやられた……。
ロバート・ブラック
・ブラックは非嫡出子で、生後6ヶ月から里親に預けられ、日常的に体罰を受けていた痕跡があった。
→連続殺人犯の共通点の一つとして、親から愛情を受けたことがないことが挙げられるが、ブラックも例外ではなかった。
・継父(5歳時に死去)に関する全ての記憶が欠如しているのに5歳の頃、幼女と行った猥褻行為については異様に鮮明である。
・同年代の女児や赤ちゃんの性器を覗く行為は続き、8歳の頃から自身に異物を入れることを始める。
→記憶の欠如は、トラウマの症状の一つの可能性があり、性的逸脱行為は性的虐待を受けていた影響による可能性の高さを物語っている。
・11歳の時に継母が他界した後、施設に預けられ、職員の男から性的虐待を1~2年、受けていた。
→実際、性的虐待を日常的に受けていた記憶がある。
・この施設で同年代の女の子を、他の男子と輪姦しようとしている。
→性的逸脱行為は暴力的に発展する。
・16歳の時、7歳の女児を人目につかない場所に誘惑し、泣き始めると首を絞め、気絶させた上で、性加害を加え、翌日逮捕された。
→これほどのことをしたにも関わらず、少年裁判所は「宣告猶予」しか言い渡さなかった。
その後もブラックは他の幼女を見つけては性加害を加え続け、過失致死に至ることも少なくなかった。
<つづく>
本書の題名と邦題の違い
原作『Murder of Childhood(直訳:幼少期の殺害)』の邦題は『なぜ少女ばかりねらったのか』と意訳されているが、この和訳に私は違和感を覚える。
なぜなら本書はブラックの個人的な性的嗜好をという表面的な話題に止まることはせず、社会全体が背負っている深い問題にメスを入れているからだ。
親の愛情を知らない捨て子が、周囲の大人からあらゆる虐待を受け続けた環境。加害行為に対して社会全体が適切に対処してこなかった背景。そして人々の無知や無関心がこのような悪人になるまで育む要因になっている悪循環を指摘し、逆境の中で打開策やその課題まで描いている。
その中で、被害者と加害者の共通点が、大人の手によって子どもの人権や命を奪われているという事実。
すると『幼少期の殺害』という原題の直訳は抽象的で一見わかりにくいかもしれないが、本書の複雑ながら本質的なテーマを的確に表していると思う。
本書で無数の子どもたちの幼少期を殺害した犯人はブラックだが、ブラック自身も幼少期を奪われてきたことを考えると、「幼少期の殺害」を繰り返しているのは、無責任な社会にいる一人一人である不都合な真実が浮かび上がる。
被害者と加害者を分けて考えたがる傾向は、第三者としての責任(意識や行動の変化)から目を背けた方が「楽だ」という誤解からきているのではないだろうか。
一方で『なぜ少女ばかりをねらったのか』という意訳は、本書が描く複雑な社会問題を単純化しすぎているように感じ、残念に思わざるを得ない。これは売上を意識した編集者の計らいなのかもしれない。多くの読者の目に留まることは重要なことだが、センシティブな問題だからこそ、興味本位で読まれることに、当事者としては抵抗さえ感じてしまう。
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関連動画
ロバート・ブラックに関するドキュメンタリー:
私がレイ・ワイヤ氏の存在を知るきっかけとなった動画(悪魔的儀式虐待から脱出できたサバイバーに関する動画):
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