『犯免狂子(上)』 性被害の否定から始まる人生

自己紹介

分厚いアルバムの中、乳幼児は満面の笑みを浮かべている。

これが自分?
信じられなかった。

何がそんなに嬉しいんだろう。
検討がつかなかった。

でも、それは、紛れもなく自分にも幸せな時代があった証拠写真。

だとしたら、その感覚を思い出せないのはおかしくないか。

何度見返しても……むしろ見返したくないほど不気味な写真は他にもあるが……。

私の一番古い記憶は、悪夢から始まる……または悪夢から目覚めるところから始まる。

はて、寝ても覚めても悪夢のことをなんと言えばいいんだ。

めごめご

目が覚めると、真っ暗闇のなか、指先がパンツの中で蠢いている。その手は右側で眠っているはずの父の方から伸びていた。

……お母さんと勘違いしているのかな……でも、お母さんのそこには毛が生えているよな……。

そうか、お父さんは寝ぼけているんだ。寝返りを打つフリをして手を振り払らおう。

母の方へ横向きになった瞬間、
パンツの後ろを握り締められた。

……え

熟睡中のお母さんを起こしてはいけない気がした。でもここに居るわけにもいかない。

なるべく静かに、でもなるべく素早くベッドからどうにか抜け出すと、寝室の斜向かいにあるトイレのレバーを下ろしていた。


ッジャーーーゴボゴボゴボゴボ


静寂を破る流水の音量にヒヤッとしながら、忍足で三段ベットの中段、普段の寝床に入った。

「この音でみんなが目が覚めてしまいませんように」と願いながら目を閉じた……。



「お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ」

……朝、寝起きにギュッと抱き寄せられながら母に言われた。

暗闇の中、瞼の裏に不快な映像が流れ、目が開く。

またあの悪夢かとウンザリしていると「悪夢なら、なんでふたりの間で寝ないの?」と挑発的な声が聞こえてくる。

言葉に詰まっていると、声は容赦無く語りかけてくる。

「今日は誰がふたりの間で寝るか、前は弟たちと取り合いになってたじゃん。補習校の幼稚園で教わったジャンケンで決めようと提案して、勝った時はあんなに喜んでいたのに。なんで?」

声をかき消そうと、私はひつじを一匹づつ数えてみたりした。

そうこうしているうちに、両親の寝息が聞こえ、また自分だけが起きている、と我に返る。

この奇妙な現象は、体調がすぐれない時にだけ両親のベッドに潜り、母の隣で横になってると必ず起きるのだった。

役立たずなぬいぐるみ


ペルシャ猫の大きなぬいぐるみ。自分の身長ほどあるそれは、東京のおばあちゃんから送られてきた。

本物みたいに毛並みも立派で、腹の部分に単3電池を入れてスイッチを入れるとニャ〜オニャ〜オと鳴く。

初めてのプリケー(日本の幼稚園年少・年中にあたる保育園)の日に抱えて行った。

血迷ってスイッチを入れたら案の定、部屋中に鳴き声が響いた。その音量に焦り、盾のつもりだったそれ自体を隠したくなった。

電池入れの代わりに、どんなものでも隠せる深い深いポケットがあれば良かったのに。

もったいないという罪悪感を覚えながら、それで遊ぶことはなかった。

人魚姫

大きくなったらなりたいもの。補習校の幼稚園に入った頃は「スチュワーデス」だった。父とふたりで2回目の日本に行った時、機内で綺麗なお姉さんたちに可愛がられたのが嬉しかったから。

でも絵本で「人魚姫」に出会ってから、私は人魚姫になりたいと思った。

人魚姫は足を得たものの、声を失ったため王子と結ばれることはなく、魔法を解くためにも王子を殺せず、海に飛び込み泡になる。

天に召されるが、人魚姫の声や命を犠牲にしても本当の望みが叶わなかったという切ない物語に惹かれた。

だからか後に観たディズニー版の人魚姫アリエルの話には興味を持てなかった。

お姉ちゃんでしょ

引っ越す前にご近所さんだった4歳と6歳年上のおねえちゃんが2人いた。優しくて綺麗で憧れの存在だった。

家に遊びに来てくれたある日、私と2歳の弟が戯れていた際、私は弟の頭を壁にゴンとぶつけた。

「やめなさい!お姉ちゃんでしょ!」

4歳上のおねえちゃんの声色と険しい目にショックを受けた。

おねえちゃんの前だから調子に乗っただけなのに。

私だけ怒られた。「お姉ちゃん」だから。

いつも何かやらかして怒られているのは弟たちの方なのに。

お母さんは弟たちの尻を叩くために木製の卓球ラケットのようなもので追いかけるようになっていたほどだ。おそらく手が痛くならないために。

おねえちゃん達が帰った後、私は弟たちに初めて命令した。

「これからは『お姉ちゃん』って呼んで」と呼び捨てを禁じたのだ。

こっちはお姉ちゃんとして損してるんだから、その分、私を敬え。従え。私の方が上だということを自覚しろ。

「はぁーい」と素直に返事をする弟たちとの間にますます隔たりを感じた。

大人の話

おねえちゃん達から無条件に可愛がられる弟たちに混ざって遊ぶことができなくなっていた私は、ダイニングテーブルを囲むお母さんたちの会話を近くで立ったまま耳を傾けていた。

話題は男性アイドルから恋愛に移っていったが、母は黙って座っているだけ。

私は会話に参加したくてウズウズしているというのに。

小学1年生になった私は、同級生の男子ルークに片想い中で、タイムリーなネタも持ち合わせていた。

痺れを切らして「あ」と言った瞬間

大人の話ッ!」

ピシャッと言い放った声と鬼の目に、背筋が凍った。

自分の存在が気づかれないよう、ゆっくりと後ずさりしたものの、他人の広い家で居場所を失った感覚で記憶が途切れている。

初恋と屈辱

母の家事や炊事などの手伝いをしていた記憶が断片的にあるが、変わり映えのない日々だからか思い出がほとんどない。

同級生は学校以外でも交流がある様子だけど、どうやったらそのようなことになるのか分からなかった。

現地校が終わる頃には母が迎えにきていて、一緒に歩いて帰宅。毎日毎日、自宅と学校の往復。

そんな退屈なある日の帰り道、私はついに思い切った行動に出た。

母の目を盗み、迷子になったテイで、近所に住むルークの家へ足速に向かったのだ。

ドキドキしながら、頭の中で何度もリハーサルした道を迷いなく進むと、家の前に彼が。

笑顔で「Hey Asahi. Pass me the ball」と言った。

私が持っていたボールを投げると、彼はそれをバウンスパス。

そういうパスもあるのかと閃いた瞬間、雷が落ちた。

振り向くと鬼相の母

ルークの前で涙だけは流すものかと歯を食いしばった。

✴︎

「ルークが教科書、借りにきたって〜」

後日、母の呑気な声に対する苛立ちと、好きな人の前で怒鳴られた屈辱から、私は彼にそっけない態度をとった。

心と体がチグハグな自分が嫌で嫌で仕方なかった。

✴︎

ブーーーン

彼が毎日、近所を乗り回していた電動スクーターの音。

我が家の近くを通り過ぎるのが聞こえるたびに、胸がギュッと苦しくなる。

こんなにも近くにいるのに、一緒に遊べない。

私が意地っ張りだから悪いのか。

でもお母さんが快く遊びに行かせてくれるなんて想像もできなかった。

窓から彼の姿が見えないように部屋でうずくまりながら、消えてしまいたいと願っていた。

初めての嘘とビンタ

帰宅すると、真っ白いホールケーキがダイニングテーブルの端に置かれていた。

思わず、ふんわり掛けられていたラップの隙間から、人差し指を入れた。

ホイップクリームを舐めたのも束の間、母の険しい声色に問いただされ、私はとっさに「ううん」と答えた。

ッパァーン!

「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」

母の反応にショックを受けた。

腕を掴まれたまま、早足で階段を上がっていく母に足並みを揃えるのに必死になっていると、ウォークインクローゼットに閉じ込められた。

真っ暗の中、泣き喚きながら、ドアを少しだけ開けたが、1階に戻っていった母が怖くて出らない。でも暗闇も怖いので、電気のスイッチを手探りでつけた。

雑多なクローゼット内を見渡すと、目線と同じ高さにあった棚の上に、布に覆われた物体が。

それをめくった瞬間、全てを悟った

時計と九九

成績は悪くなかったというか、全体的に良い方だった。

宿題は授業中に終わらせたし「勉強」をした覚えがあまりない。

「時計」と「九九」を除いては。

ッパァーン!

「なんでこんなこともわからないの?!」

なんで分からないかなんて、分かるわけがない。

「答えは?!」

いきなり顔をぶっ叩かれながら尋問されることで、急に算数の正解が導けたら世話がない。

でも、それが私の母の教え方だった。

なんで怒られてるんだろう。

算数ができないことって、そんなに悪いことなんだろうか。

子どもの顔を、大人の大きな手で思いっきりぶっ叩くことは正解なのだろうか。

理解できないことばかり。

……ヒック……ヒック……

涙と鼻水を啜りすぎて、呼吸と体が勝手に痙攣。

こんなに惨めな音も体も止められない自分を恨んだ。

バンッ!

テーブルを手で叩きながら、何かに取り憑かれたような目で、容赦なく怒鳴り続ける母。

あぁ、私、この人に嫌われてるんだ。

そう思ったら、気持ちがスーッと軽くなった。

10才児の志望動機

平日に通っていた現地校に友達はいなかった。

土曜日の補習校には小学2年生の時に友達が1人できたけど、遊べたのはせいぜい週に一回、放課後の数時間だけ。

弟たちは2軒隣の男子同級生の家を行き来して、毎日ゲームしていた。

普段は静かで冴えない男子がゲームの時だけキャーキャー騒いでいる。

私は家事の合間、男子を通り過ぎる度に心の中で呪っていたましが、なんの効果もなかった。

早く大人になりたい。

大人になれば、話を聞いてもらえるし、やりたいこともできる。

まず絵本をほとんど捨ててもらった。

胸の辺りがチクッとしたけど、子どもっぽい物はこの際、邪魔。

大人と子供の違いを考えた時、家の外でも働いているということがあると思った。

「お父さんの店で、働かせてください!」

10歳の誕生日の朝、父の足元で土下座をし、額を床につけた。

大袈裟じゃない?と心がざわついたけど、時代劇で見た侍を必死に真似した甲斐はあった。

唯一学校のない日曜は毎週、朝9時から夜18時くらいまで働けることになった。

身長が足りない分は、レジの真下に台を置いたりして工夫した。

初日の仕事終わり、父から5ドル札を渡された。

大人に一歩近づいた気がしたことが何よりも嬉しかった。

願いが叶っているはずなのに、補習校の友達が買い物にきた時はサッとトイレに隠れた。

ローラーブレードのまま入店し、何かを買っていく後ろ姿が眩しい。

ローラーブレードのままで怒られないんだ。

一人で買い物に行かせてもらえるんだ。

同級生なのに、別世界に住んでいる人みたい……。

夕方になると客が引いて暇疲れしたけど、家にいるよりはマシだった。

補習校の友人

春、補習校で小学4年生に上がった時、同じクラスの朋美ちゃんが何を思ったのか、話しかけてきた。

放課後も遊ぼうと毎週誘われ、土曜はどちらかの家で遊ぶようになった。私たちはすぐに親友になった。

朋美ちゃんの家は、私の父の店の近くにあった。その地域はユダヤ人などが多く住む富裕層エリアで、日本の大企業から派遣された駐在員も多く住んでいる。朋美ちゃんの父親も一流企業で働いていて一時的に東京から来てるとのことだった。私の父はこのような駐在員らを対象にコンビニサイズの日本食料品店を構えていたのである。

朋美ちゃんの部屋に初めて招かれた時、箪笥の上に集められたぬいぐるみの量に驚いた。かなりの頻度でねだり、許可が得られないとこの数にはならないはずだ。

朋美ちゃんは2つ年上の姉がいて、色違いの服や小物も持っていることが多かった。本物のお姉ちゃんがいるなんて羨まし過ぎた。

私たちはお絵描きをしたり、ビーズで人形を作ったり、交換日記をしたり、お菓子を作ってみたり、ほぼ家の中でできることを色々やった。些細なことも笑いが絶えず楽しい時間を過ごした。

私は笑わってもらえると嬉しくなった。調子に乗って志村けんのモノマネをしてみたりもした。

朋美ちゃんはぶりっ子なところがあり「朋美わかーんなーい」が口癖だった。

これはいい、使えると思い、家に帰って早速、真似してみたら「わかんないじゃありません!」と母に怒られた。なぜ怒れるのかは分からなかったけど、分からないことを認めるより、分かっているフリをした方がいいのだと理解した。

朋美ちゃんとは気が合うけど、育ち方に根本的な違いがあることを思い知らされることが多かった。

朋美ちゃんはお小遣いとして毎月20ドルもらっているとかで、それは私が父の友人からもらったことのある、お年玉と同額。あるいは私が父の店で1ヶ月間に稼げる額と同じだ。

私は貯金はあっても自由には使えず、無いに等しかった。名ばかりの「おこづかい帳」を付けてると母に褒められたが、何かを買いたいと素振りを隠しきれないだけで、文句を言われる。

朋美ちゃんの誕生日プレゼントには、自分の頭の中で「宝物」というテイで集めたガラクタを箱に入れ、包装紙を箱に貼ったものを渡した。

朋美ちゃんは姉から「スゴいねって言われた」そうで、私はちょっと照れた。

私の誕生日になると朋美ちゃんから細身なアザラシのぬいぐるみをプレゼントされ、小さいカードには「HAPPY BIRTHDAY」と「アザラシかわいいでしょ」と「朋美はかったよ」という言葉が添えられていた。その意味が分かった気がした瞬間、そんな図々しいことを書ける神経が信じられないと思い、代わりに「なんでアザラシなんだろう」「かわいいか?アザラシにしては華奢すぎない?」という疑問に全集中した。

現地校の記憶

秋になって現地校でも小学4年生になると、担任が男性のドクター・フレドリック先生になった。女性の先生たちに多い大袈裟な明るさはなく、ドライなユーモアを時々いう落ち着いた雰囲気が好印象。くしゃみの時、「ゴッド・ブレス・ユー」ではなく「グズンタイ」とドイツ語を使う意味でも個性的だった。

私はいつからか、クラスの演劇に主演に抜擢されるほど成績が優秀で、金髪ストレートが腰まであるウクライナ系の女子リンジーを笑わせようとしていた。

彼女が「スタンドアップ(立ち上がれ)」「シットダウン(座れ)」「シットアップ(背筋を伸ばして座れ)」などと交互に命令し、私が飼い犬のように立ったり、座ったりしながら「シットアップ」のところで混乱するという、コントみたいなことになっていた。

リンジーらから「weirdo(ウィアドゥ)」と呼ばれ始めた。「変わり者」という意味だ。

周りにもちょっとウケていたのかもしないと思ったのは「今度、私の誕生日会に誘うね」と別のクラスメイトに初めて言われた時。その子が自慢の誕生日会に私は誘われたことがなかったので、ついに仲間に入れてくれるのかと嬉しくなった。

「セックスって知ってる?」

ある日、唐突にやんちゃな男子が得意げ聞いてきたと思うと、クルッと背を向けて、両腕を胴体の前でクロスさせ、背中で指先を蠢めかせ一人二役を演じてみせた。面白い。けどなぜ。

思い当たる節があるとすれば、保健体育の先生が性交について説明した際、私が「ペニスが抜けなくなったりしたらどうするの?」という質問を冗談でしたことくらい。きっと彼なりのレスポンスだったのだろう。

終業のベルが鳴って教室を出る際、私がいつものように戯けていると、頭が良くて落ち着きのある男子がフッっと鼻で笑い、私を横目に見ながら通り過ぎた。私は全てを見透かされているような恥ずかしさを覚え、それからは不特定多数の前ではふざけないよう気をつけた。

音楽の授業として各々楽器を始めることになった時のこと。私はドラムがやりたかったが、私を鼻で笑った男子を含む男子ばかりだったので、気が引けた。無難に女子の大半が選んだフルートにしたが、その後もずっとドラムをやりたい気持ちを引き摺った。

ランチの時間、カフェテリアのテーブルに女子は固まって座るのだが、ある時から、私のフルートがケースからバラバラ落ちることが連日起こった。知らないうちに誰かが私のケースのロックを外しているとしか考えられない。警戒していたら、リンジーが私に内緒話をする素振りをしたので気を取られた。ベルが鳴ってフルートのケースの取手を持つと、楽器がバラバラと床に落ちた。女子たちが笑ってその場を離れていき、全員グルだったことに気づいた。

薄々気づいてはいたが、誕生日会への誘いも口約束だった。

剽軽なキャラだと馬鹿にされて舐められると悟り、陽気な自分を完全に封印した。元の影の薄い自分に戻ったのだと思う。言い張れないのは、その頃の記憶が殆どないからだ。

育ちの違い

土曜日の放課後だけ水を得た魚のように朋美ちゃんと遊んだが、このような日々にも終わりがきた。

小5年から朋美ちゃんとクラスが別になり、相変わらず一緒に遊んだが、小6から朋美ちゃんはクラスメイトの雅子ちゃんに急接近。雅子ちゃんは毎週同じ服を着ている印象があるが、黒いTシャツ、赤と黒のチェック柄のプリーツのミニスカートに黒い厚底ブーツと、コーディネートが意識されていた。

毎週どころか毎日同じ膝が抜けたズボンを履くしかなく、それはダサい格好の事例であると示唆する絵手紙を朋美ちゃんから受け取ったことがある私から見ても雅子ちゃんはオシャレだった。

朋美ちゃんと一緒に雅子ちゃん家へ遊びに行った際、雅子ちゃんの母親が「雅子は力持ちでいつも模様替えしてるの」と我が子を肯定的に話したことに軽い衝撃と嫉妬を覚えた。

朋美ちゃんと同じクラスで、ファッションを楽しんでいて、お母さんが肯定的。羨ましい要素があり過ぎて、私は思わず「雅子ちゃんのこと嫌い」と朋美ちゃんに言ってしまった。

すると、朋美ちゃんは勝手にそのことを「雅子ちゃんに言った」と報告してきた。なんてことをしてくれたんだ。私は朋美ちゃんに嫌悪感を覚えたのと同時に、自分が気持ちを的確に表現できなかったことをその後もずっと悔やむことになった。

中2に上がる頃、私は補習校に通わせてもらえなかった。母が「PTAの役員をしたくない」から。私は泣き叫びながら学校に行かせてと頼んだが聞き入れてもらえなかった。

代わりに送られてきた通信教育の宿題は、私の気持ちが全く理解されていない証だった。

中学3年に再び補習校に通えることになったが、一年間のブランクの大きさを感じるばかりだった。

高校受験のために日本へ帰国する家庭が増え、生徒数が急激に減って10人もいなかった気がする。

朋美ちゃんとの間に徐々に生まれていた溝が最も深くなった年でもある。

転校生たちと朋美ちゃんが仲良くなり、見えない壁が分厚くなっていくのを感じた。

まず、呼び捨てしあえる仲が羨ましかった。小学生の頃「呼び捨てし合おう」と朋美ちゃんが手紙で提案してきた時、憧れたけど恥ずかしくて、タイミングが分からずじまいだった。

髪の毛を色とりどりに染めたり、身につける高級ブランド品が増えていく彼女達。

私はノーブランドの服でさえ、顰めっ面の母に「変だよ」と否定されていた。

お金を使わずに、欲しいものを手に入れる手段として万引きをし始めた。スリル感も味わえて一石二鳥だった。

補習校は中3で卒業し進学はしなかった。小学4年生から中1までの唯一楽しかった土曜日は、戻ってこないことを思い知ったからだ。

飴と鞭

14歳。法的な労働許可が降りる年齢になった途端、「うちで働かないか」と父の店の常連客のユダヤ人女性からスカウトされた。

養子にくれと母に直談判していたほど私の勤勉さを評価していたことも知らず、私は二つ返事で引き受けた。

パーティ会場をデコレーションする仕事で、出勤は土日祝日に増え、拘束時間も深夜にまで延び、休憩時間もなかったが、父の店で暇をつぶすより充実した時間だった。

元旦の深夜に帰宅し、母のおにぎりを一口含んだ途端、涙がツーっと流れて、びっくりした。

でも実感のない空腹を無感情な涙に伝えられる切なさに浸っている場合じゃなかった。すかさず泣き声を加え、アピールした。

あくまで「おにぎりが美味しすぎて沁みている」という芝居で母に媚を売っておこうという、ごく自然な計らいだ。

母はバイト時間において制限をかけることは一度もなかったので、この抜け穴を最大限に活さない手はなかった。

とはいえ平日の放課後は相変わらず、母の手伝いがあるので、基本的なスケジュールは変わっていない。

だけど「飴と鞭」でいうところの「飴」もちゃんとあったので、理不尽に怒られたりしない限り、手伝い自体をさほど苦だとも思っていなかった。

例えば母は毎年、イカ2杯で塩辛を仕込んだのだが、烏賊の口(イカの「トンビ」という希少部位)を味見と称して2つとも食べさせてもらっていたのは5人家族で私だけ。

トンビの噛むほどに味わいが増すコリコリ食感は他の部位では決して味わうことができない唯一無二な味覚であり、これを食べられることは雑用の特権だった。

弟たちが同級生とゲームをしていても、ご飯ができるまで優々とテレビを観ていても、私が自尊心や優越感を保つことができたのは、このようなご褒美があったからだ。

食の英才教育

父方の祖母はもともと富山の料亭の娘。父の兄は板前。私が生まれて間も無く、祖父母と伯父を訪れに東京へ行った際、鮪の刺身をペロリと食べる私を面白がってみんなで惜しみなく与えていたと父から何度も聞いた。

「お前を飲兵衛にするのが夢なんだ」は父の口癖の一つだった。

お陰様で、海鼠の酢の物、鮑の肝、白焼、伊勢海老や車海老の刺身、蟹ミソ、白子、あん肝などなど、独特な食感、磯の香りやほろ苦さのある酒の肴が幼少期の頃から好物だった。

高級日本食スーパーへ年に数回遠出した際、弟たちがお菓子を選んでいるところ、私は鰻肝2本入りのパックを選び、我ながら渋いセンスをしていると俯瞰していた。

伯父が居候していた時期、6人がけのダイニングテーブルの定位置が、私の向かい側の席だった。

魚の骨や皮の周りが一番美味しいのだとか、お頭が大きい魚は目の後のゼラチン質や頬の肉が旨いのだとか、通な食べ方を逐一教えてくれた。

私の魚の食べ方が綺麗だと父は毎回感心していた。

新婚の頃の母は料理が得意ではなかったらしいが、私が知ってる母は既に料理上手だった。味噌汁とご飯が進む野菜おかずが中心の和食の他、洋食や中華なんでも作れて、夕食の献立は毎日変わった。たまのおやつや、誕生日ケーキも手作りだった。

刺身の盛り合わせ、寄せ鍋、すき焼き、河豚の鉄柵、鍋焼きうどん等、父もたまに得意料理を振る舞ってくれた。

外食は年に数回、近所のチャイニーズレストランか飲茶に行く特別なことだった。コーラは年に一回、ピザをテイクアウトしたの時だけ。レストランでの飲料は水という暗黙のルールがあり、節度もあった。

数年に一回訪れる東京で外食する際は超一流店ばかりだったことは、大人になってから知った。

大人と同じコース料理をいただいていた私は、子ども騙しを(お子様ランチ)を与えられている子どもたちの味覚の発達を危惧し哀れに思っていた。

祖父とは広い公園で水彩画を描いた後に、純喫茶に行くのがお約束だった。

「着る物はなんでもいいけど、食べる物は良いものを」というのが母の口癖。

母は「どうせすぐ大きくなるから」とまだ小さい弟たちに大きいサイズの服を買っていた。私の服はほぼ、おねえちゃんたちのお下がり。嫌だと思ったことは一度もなく、むしろ嬉しかった。ただ思春期に、服を試着するだけで母に批判されるのは苦痛で堪らなかった。

16歳の誕生日、メニューに値段表記のない高級フレンチに連れてってもらったことがある。ドレスコードがありブレザーを着て行った。料理の内容は全く覚えていないが、ほら、着る物だって大事じゃないかと矛盾を感じたことだけは鮮明に覚えている。

いずれにせよ、食べ物だけは、そこら辺の富裕層より相当良いものを食べている自負だけは揺らいだことがなかった。

なんたって父は、我が家がある地域よりも、もっと裕福な暮らしをしている人たちが密集している地域のお客さんたちを相手にご馳走を提供していたから。

富裕層エリアでも味覚が一般的な家庭に大好評だった、巻き寿司のプラターを週末や祝日に何十台も作っていたのはほんの序の口。

漆のお重に握り寿司や刺身や小料理を詰めた特別注文は、舌の肥えた少数のお客さんに定期的に提供していた。

駐在員のお客さんたち用のお節も母と一緒に毎年作っていたし、超お金持ちの豪邸で開かれたパーティーのケータリングを頼まれたこともあった。

味覚においは唯一優越感を覚えることができたから、他の全ての面では平均以下だと感じても、私は辛うじて自尊心を保つことができていた。

毎晩、腹を下す

毎晩父が帰宅し、7時頃には一家5人揃って合掌し、元気よく「いただきます」と言ってから夕飯を頂くのは、父の希望だと聞いている。

戦後ひもじい想いをした父の話や、今も飢えに苦しみ、餓死する子供たちが世の中に大勢いる話を何度も聞いた。

肋骨が浮き出た状態で、うずくまっている幼女の背後でハゲワシが狙っている「ハゲワシと少女」という有名な写真がある。私はこの子をいつも想い浮かべていた。

あの子と比べたら、自分は恵まれている。

だから、不満を感じるのは罰当たり。

あの子の分まで食べるつもりで、八十八の過程を経てご飯になった米を一粒残らず、有り難く頂いた。

「食べさせ甲斐のある娘だ」と、父はよく私を褒めた。

ご飯を何杯おかわりしても、炊飯器のご飯が足りなくなることもなかったので、底なし沼のように食べ続けた。

合掌して元気よく「ごちそうさまでした」というと、2階のトイレに駆け込み正露丸を飲んだ。

なんでお腹を壊すまで食べてしまうんだろうと便器の上で毎晩考えた。

私は細身だし嘔吐は嫌いなので、拒食症でないことは確かだった。

ご飯が美味し過ぎて、痩せの大食いだから仕方ない、と腹痛が治る頃には同じ結論に至っていた。

現地校で初の友達

中学2年に上がった現地校の夏休み、私に珍しく電話があった。フランス語の授業中に会話の練習をしたことがあるサンドラだ。

彼女は南米コロンビア出身で、スペイン語が母国語だけど、移民であることを忘れさせるほど英語も達者。

年上男性との関係について根掘り葉掘り語り、卑猥なギャグを連発しては独りで大ウケているので、私はつられて笑っていた。

そんな彼女は母親の再婚相手である義父と確執があって、怒りを顕にすることも多々あった。ハロウィンの夜に外出を禁じられ、2階にある自室の窓から飛び降り、鼻の骨を折った状態でクラブへ遊びに行くほどの反骨心があるサンドラを私は尊敬していた。

スリップノットやマリリンマンソンなどのメタル音楽の世界にハマったきっかけも彼女の影響だ。それまで朋美ちゃんの影響でJPOPの流行を追っていたが、ヘヴィメタのように魂の叫びを代弁してくれることはなかった。

サンドラは徐々に登校しなくなり、最終的には退学したが、私は放課後、彼女の家に通い続けた。彼女は学校以外の人とも交流が広く、私の経験値を上げ視野を広げてくれる存在だった。

彼女を通じてコートニーという同級生とも仲良くなった。コートニーはアル中や薬中の母親と貧困生活を送っていたため、離婚した父親の元に引っ越してきたそうだ。映画のような波瀾万丈な幼少期を聞いていると、自分の人生はなんて平凡なんだろうと思えて、いくらでも聞いていられた。

そして17時頃になると必ず迎えにくる、母の車が視界に入る度に私の全身はズーンと重くなった。

夕食を終えた後は「もう暗いから」という理由で外出できないことが分かっていたから。

お泊まりは「この前したでしょ」と言われ許可が滅多に下りない。

門限を破るようになると、母からビンタと長時間の説教を食らった。

「電話しなさいって言ってるでしょ!なんで電話しないの?!」

門限が延長される訳ではないから。

正直に答えても意味がないことがわかっていたので、流れる涙に泣き声を加えて間を持たせようとした。

ッパァーン!

頬を叩かれる度に、見覚えのある映像が脳裏をかすめた。

それは小さい頃、繰り返し見てきた悪夢と同じ映像。

でも、あの頃に見ていた悪夢が今、意識のある状況でも見えているということは、悪夢じゃなくて私の記憶……?

そう考えると色んなことの辻褄は合う気がしたが、万が一そうだとしても墓場に持っていくと決めた。

顔をぶたれるたびに決心が固くなった。

私がいけないんだ。女に生まれてきたからいけないんだ、と自分を呪って呪って呪い続けた。

夜出歩くと、普段会えない・気になっていても話す機会がない人達にもすんなり会えたりして、会話がしやすく、視野が広がった。

パーティーは夜、だいたい誰かの家で開かれ、0時前は人が集まり始める序盤に過ぎなかった。私はこれからという前に帰らなくてはならなかった。

「夜は危ないから」というのが母の理由。

確かにリスキーなことも起きていた。未成年のタバコやアルコールの過剰摂取は当たり前だし、ジョイントが回されることもあった。でも命に関わる危機感を覚えたことは一度もない。

実際ODによる死亡や強姦など、物騒な噂を聞くこともあったので、私は運が良かっただけかもしれない。それでも、私は我が家にいた方がよっぽど不安で危険だと感じていたので、母の言葉は響かなかった。

しかし、束の間の楽しい時間も毎回、家に帰る途端にビンタに説教だと辛い。

次第に疲弊して、学業以外はバイトに専念した。

短大生の当時に交際していた男性の母親から「息子がかわいそうだわ。あなたいつも仕事しているから」と言われたほどである。

私は絶対にこの家を出るんだ。その日のために軍資金を貯めている。誰になんと言われようと構わない。

その頃、日本ではギャルのプチ家出が話題になっているというニュースを知り、「プチ」ってなんだ?と思った。そんな甘ったれた根性で家出ごっこができる身分や、その程度のことで騒ぐメディアはくだらないと蔑んだ。

今の私が下手に家出しても、直ぐに足がついてしまうだろう。周囲を巻き込んでまで、親の偽善に付き合うほど恥ずかしく、つまらないことはない。私には永久の家出しか選択肢になかった。

そのチャンスがいつ来るかは分からなくても、金はあればあるだけ有利になる。

仕事がない時は、家中の壁を修繕した。

動機は2つ。

一つ、ヘビースモーカーの父や伯父が長年、タバコのヤニで汚してきた家中の壁が黄色く変色しどんよりとしていたうえ、天井のペンキがベロンと剥がれたままで、目も当てられないほど見窄らしかったから。

二つ、門限を破り母から「信用できない」と言われていたので、「更生」の姿をみせることで、自分の下がり切った評価を少しでも上げ、自分の立場を辛うじて良くさせようとする試み。

自腹を切って道具を入手し、剥がれていたペンキを取り除き、パテで穴を埋めて、ヤスリをかけ、養生し、新しく白いペンキを塗った。壁がみるみるうちに見違える過程は単純に気持ちがよかったし、退屈で死にそうな時間を忘れることもできた。

念願の家出が叶う

21歳。一冊の洋書がキッカケで、息苦しい実家から円満に出ることができた。

邦題は『ザ・レイプ・オブ・南京:第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』というニューヨークタイムズ・ベストセラーで、日本の加害者としての歴史が書かれている。

大日本帝国の軍人たちが侵略したアジア諸国で、幼児から老婆まで輪姦して市民を大虐殺。

731部隊(疫病対策を目的とした医務および浄水を代表するライフライン確保を目的とした部隊)が裏では、生きた人間に人体実験などし細菌兵器を開発。

しかも冷戦中、アメリカとの裏取引で大勢いの軍医らが免罪になり、日本の医療業界などに天下りして現代に至っている。

日本人としてのアイデンティティが、私の心中で音を立てて崩壊し、私が頑張って応えようとしてきた「日本人像」が砂上の楼閣だったことに気づいた。

それほど衝撃的な内容なのに、私の経験の点と点が結ばれてゆき、妙に腑に落ちることが多かったのだ。

現地校の保育園で、人種差別の歌「チャーニーズ・ジャパニーズ・インディアンチーフ」で白人の同級生に揶揄われたこと……。

父がいきなり中国人や韓国人を小馬鹿にする発言をしていたこと……。

母がとつぜん韓国人に対する軽蔑的な言葉を使ったこと……。

人種差別発言なのに悪気が感じられず、面白いことを言っているつもりのようなところ……。

私が意見を言うと「そういうとこアメリカ人っぽいよね」と母や朋美ちゃんからイヤミっぽく言われてきたこと……。

「日本人はそんなことしません」と、母が私の行動を批判する時に言うこと……。

現地校の中学で「あなたが日本人だから関わりたくないらしい」と面識のないアジア人生徒が言っていたと、フィリピーナの生徒からワザワザ報告されたこと……。

“Japanese imperialist invasion” という単語は歴史の教科書で見たことがあったので、そのことを指しているんだなとピンときた。

でも世界大戦以前から色んな国が侵略戦争をしてきたし、住んだこともない先祖の国の昔のことを私にどうしろと?と嘲笑った。

同時にその執念深さに驚き、その後も心の奥で引っかかっていたこと……。

欧米に対しては過剰なコンプレックスを抱き、うわべでは謙虚さを装いながら実は異常なほど自惚れていて、少しでも異論を唱える者は同じ国民でも仲間外れにし、他のアジア人のことは当然のように見下すことで無意識的に優越感に浸ろうとする日本人あるある。

劣等感とナルシシズムの塊ともいえる歪な国民性は、日本の戦争犯罪の免罪と忘却とタブー化よって助長されているように思えた。

生きづらさの根源にあるように思えるこの国民性の影響は、異国の現代社会に生きる個人の私にまで及んでいた。

私は仲間と認識してもらうために、身近な邦人の言動を真似してきたが、孤独になる一方だった。

幼い頃からもっと広い世界を観たいと切望していた私はこうも思った。

加害の歴史も知らず、近隣諸国へノコノコと行った矢先に、先祖の仇として攻撃されるかもしれない危険性もあると。

一方で、加害の歴史を把握していたら、先祖の罪を子孫として謝罪したり、お悔やみを伝えたりすることができる。

そもそも知識と共感力を持ちながら生きるのと、無知で無神経なのとでは他人と交わす言葉も態度も関係性も変わってくるはず。

私は比較的に恵まれた教育環境にいる自負があっただけに愕然とした。

日本人は「教育熱心」なんていわれるれど、誰ひとりとして、加害の歴史を私に教えようとしなかったのが一番の衝撃だ。

アメリカが広島・長崎に原爆を落としたことを知らない・否定する人はいない。

ナチスのホロコーストは否定することの方がタブーで、聞いたことがない人には会ったことがない。

現地校ではアドルフ・ヒトラーが歴史上最も残酷な人だと教え込まれる。

すると731部隊の人体実験の極悪な機密情報をソ連に渡すとアメリカを脅迫し、免罪符を得てしまうほどの手札を切れた石井四郎はどういう位置付けになるのだうか。

「丸太」扱いされた人の多くが共産主義国の中国人でなく、アメリカを牛耳るユダヤ人だったら、南京虐殺や731部隊を知らない人がこの世に存在することはあり得ない。

しかし日本の教育は一体どうなっているのだろう。

現代に続くアメリカの先住民や黒人迫害の歴史を、米国でまともに教えないのと共通するものを感じた。

被害や誇れる部分だけを強調し、加害の歴史を矮小化しながら、愛国心を唱う風習は万国共通のようだ。

生まれた場所で生涯を遂げ、外界との交流が最小限の人は大勢いるかもしれませんが、私にはその道が最初からなかった。

日本に住んだことがなくても、日本代表かのように、世界中の人から祖国のことばかり関心を持たれる。日本のことを包括的に知らない訳にいかない立場にある。

急遽、東京にある大学への進学に向けて舵を切った。

母が反対しなかったのは意外だったが、安心材料が揃っていたからだろう。

渡航先は彼女の慣れ親しんだ母国で、私の進学が目的であり、滞在先は父方の祖父母と伯父宅。

進む道が決まった途端、実家から脱獄する念願が思いがけず、一石二鳥で叶ったのだった。

過保護・過干渉な両親

晴れて地球の反対側まできたとて、母は相変わらず絡んできた。

例えば「中国語のクラスも取ってみようと思っている」と私が言えば反射的に「フランス語はどうしたの?!」と母は声を荒げる。

習得する第二言語に数量制限が設けられている世界観が正常かのような発言に私は疲弊する。

私は貯金と奨学金の他、バイトをいくつも掛け持ちし、学費も生活費も自分で賄っていた。最初の頃は祖父母の家に居候させてもらっていたが、家賃は自主的に払っていた。

それなのに私の選択する科目にまで文句を言ってくる母には、自分のことを徐々に話さなくなった。

日本の政治学が専門の教授と出会い、私は政治学を専攻することにした。

保守派の一大政党が、歴史教科書から戦争犯罪の内容を隠蔽し、憲法9条や教育基本法などの改定を企み、再び戦争ができる国にしようとしてきた経緯を学んだ。

しかも官僚や政治家や大企業に忖度して重要な情報ほど報じない記者が多く、市民は知る機会が少ない。

危機感を覚えた私は、教育基本法改悪反対のデモや、憲法9条を守る勉強会などの課外活動に参加した。

また日本外国特派員協会(FCCJ)の学生会員になり、外国人記者の通訳として個人事業を開業。米新聞社の日本支局でインターンをしたりして経験を積もうとした。

初の通訳は奇しくも、南京大虐殺を全否定する映画の監督インタビューだった。

南京大虐殺などを否定する日本人が一定数いて、知らない人も大勢いることが一番の悲劇だと改めて痛感した。

ホロコーストが最も非人道的な歴史として国際的に認知されているのも、日本の侵略戦争の全貌がさほど知れ渡っていない証拠だとも思った。

自由研究では、アイヌ民族、穢多・非人と呼ばれた被差別部落民、本土の捨て石にされた沖縄や米軍による被害などについて調べた。

声が届きづらいマイノリティの課題を深掘りする度に、当事者以外には複雑で分かりにくい壁に直面した。

すると自分自身も「女性という最大のマイノリティ」であることにハタと気づいてしまい、ズンと体が一瞬重くなったが、その感覚に留まることは避けた。

大学4年生になると、卒業所要単位として選択できる授業が限られる。

そのうえ尊敬する政治学の教授が一年間のサバティカル休暇に入ってしまい、魅力的な授業がない。

卒業証書だけのために、全財産の70万円を使い果たしてしまうのは、身が引きちぎられる思い。が、母は悩む私を否定するだけで、援助してくれる訳ではない。

「何か欲しい物が有ったら知らせて下さい」とメールをよこしてくるだけで、私が「今学期分の学費は払えるので、急ぎではないけれど、60万円を私の講座に振り込んでください」と人生で初めてお金のことでお願いしても、うんともすんとも返信は来なかった。

日本では多くの高校でバイトが禁しされていると聞き、文化の違いを感じていた。

だからなのが大学の費用は親持ちで、生活費の仕送りまでしてもらっている学生が少なくないようだ。

それに日本の大学は入学が難しく、卒業が比較的に簡単だから、受験戦争の時間を取り戻すかのように遊びに走る学生が多いのだとか。

私が在籍中の大学は日本では上位だというわりに、授業の質が学費に見合っているとは言い難いと思うことが少なくなかった。

1回目の授業は、そのクラスを選択するか検討中の学生が多いのだが、真面目に授業をしても意味がないと勘違いする教授が多かった。私は結局、中国語を選択しなかったのだが、それは初級クラスの教授が一回目の授業で「自分の息子の話」をして終わったからである。

真面目に学ぶために自腹を切って、海を渡ってわざわざ来ている私からすると、学生も教授も怠惰的。

「通い甲斐がなくて迷惑している」と私は毒づいた。

「季節性鬱(SAD)かもしれない」と言ったのは、週一で通い始めた大学内の心理カウンセリンセラー。

確かに昔から冬は苦手だったが、南国の常夏生活なら幸せを感じられるのだろうか。

休学を検討した際、約10万円の費用がかかることに驚き、憤りを感じた。大学生を養える保護者にとっての10万円と、勤労学生の10万円では重みが違う。そこまでの手数料を取らない文化圏の感覚するとぼったくりである。

そもそもアメリカのように他の大学に編入し単位の移行も簡単にできれば、同じ大学に留まる必要も休学を検討する必要もないのだ。日本では、学生のその時々の目的に合わせた選択が制限されている。こういう柔軟性の乏しさからも日本社会の息苦しさを感じた。

悩んだ挙句、一学期だけ休学することにした。

沖縄で約2ヶ月間放浪しながら考えた末、退学届を提出。

未知の世界を見たいと幼い頃から私が切望してきたのは、元バックパッカーの父の影響が大きい。

高校3年の時、世界一周クルーズのPEACEBOAT(ピースボート)の存在を新聞の切り抜きで教えてくれたのも父だ。

乗船できるほどの貯金は蓄えていたが、母に反対され、仕方なくコミュニティ・カレッジ※に進学したのだ。

※コミュニティ・カレッジとは、地域の税金で運営されている短期大学のこと。学費が低く抑えられているのが魅力の一つで、進路が決まっていない高卒の学生達の受け皿となっているため”13th grade(直訳すると「高校4年生」)”と揶揄されたりするが、ここで得た単位はその後、他の大学に移行することが簡単なので、合理的。

私は当初、誰にでも開かれたコミュニティ・カレッジをみくびっていたが、多種多様な授業が設けられていて、教授も授業の質も高くて非常に満足だった。

実家を出て渡日するきっかけとなった例の洋書もこの頃に出会った。

それまでは「世界一幸せな国」ブータンに行けば、「幸せ」というものを感じられるのだろうかと疑問に思いながら旅行会社からパンフレットを取り寄せたりしていた。

日本に渡っても結局、母の呪縛は続いたが、今度こそ、ずっとやってみたかったこと、世界旅に自分で稼いできたお金を使ってみたかった。

たまたま訪日していた父に退学届の話をした。父はちょっとアウトローなところがあるので、私の選択を尊重してくれると思っていた。実際、母のように猛反対しなかった。

でも後日、父が勝手に大学に退学届を停止させたことを事後報告され、私は自分の詰めの甘さを憎みた。

仕方なく、やる気を感じられない教授の授業を受け、単位だけ取得。

私の意に反してまで卒業を望むなら、交換条件として経済的な支援を親にさせるべきだったかもしれないが、そのような発想も生まれなかった。

コミュニティ・カレッジの頃から、成績を優秀に保つことで受けられる返済不要の給付型奨学金で学費を全額賄っていた。

自発的に家賃も毎月入れていた。そうすれば大人として扱ってもらえるかもしれないという打算と淡い期待からやったことで無念に終わったが。

私にとって、両親に経済的に頼らずとも自立できるということを証明することがとにかく最も重要だった。

「これが本当に最後の親孝行だ」と自分に言い聞かせて、形ばかりの卒業式に出席し、観に来た父と母の自己満足を満たすだけの役目を果たした。

母みたい…DV女に豹変

「遅い!なんでもっと早く帰ってこれないの!?」

大学4年生になった頃、私は夜な夜な優太を怒鳴っていた。

「私と仕事どっちが大事なの?!」

かつてトレンディードラマで耳にし、子ども心になんてダサいセリフと思った言葉が自分の口から出てくるとは。

「誰のお陰で今の仕事ができてると思ってるんだよ?!」

私のバイト先のひとつであった蕎麦屋に優太を助っ人として誘ったのは私。

優太はホストの仕事をすぐに辞め、毎日出勤し、トントン拍子で正社員になり、生き生きと仕事をしていた。

ただ帰宅する頃には疲れ切ってずっとゲーム。

出会って数ヶ月前までの頃のように一緒に散歩する気力も残ってない優太に私は不満をぶつけていた。

怒鳴って、我に帰って、泣き崩れながら謝るも、またすぐに怒りが勃発してしまう。

取り憑かれたように怒り狂う自分は、まるで母のよう。

ショック。お母さんみたいには絶対にならないとずっと思ってきたから。

大学を卒業した一年後、外国人向け英字雑誌でも働き始め、蕎麦屋のバイトを辞めた。

蕎麦屋は私の父の実家に近い柴又の帝釈天にあり、私が日本に来てから初めてのバイト先のひとつ。

家族経営で人情味があり、賄いも美味しかった。もっと時給の良いバイトと掛け持ちしないと不安だったから、週一しか出れなかったけど、祝日はなるべく多く出たりして約6年間通いた。

祖母の家にも、大学にも、他のバイト先にも居場所がなかった私が唯一、ちょっとだけでも和める場所。

ただ、女性は結婚して夫を支えて子育てをしてやっと一人前という暗黙の空気があり、そこは窮屈に感じてた。

一方、国際色豊かで個人主義な社風の英字雑誌の編集部には、すぐに馴染めた。

仕事にやり甲斐を感じ、イライラも軽減してきたと思った矢先、「退職してきたから急いで引越し先を探して」と優太から言われた。

突然のことに驚きましたが、優太からしてみれば私から受けいた2年間半の罵倒に耐えられなくなったのだと思いる。

優太が蕎麦屋の仕事にやり甲斐を感じられていて、職場での人間関係も私より良好だったので、嫉妬はしていましたが、辞めてほしいとは思っていません。

まさか辞めるとも思っていなかったのだが、それほどまでに優太を追い詰めてしまったことに気づき、私の自責の念は益々重くなりった。

蕎麦屋の男性社員宅の一部屋を借りて私たちは同棲していましたが急遽、都心の賃貸を私名義で借りた。

この男性社員の私の体を見る目つきや言動がいちいち気持ち悪かったので、その家から出られたことは幸い。

でも引越した後も怒りの衝動は収まりません。

優太がなぜ私と別れないのかも謎。

怒り方が母そっくりだったので、自分の女性性に問題があると考えた。

生理周期によって変動するホルモンの関係で情緒不安定になる月経前不快気分障害(PMDD)が原因だと踏み、婦人科に行きた。

この推測を鵜呑みにした男性医師から、私の目当てだった保険適用の低容量ピルYAZを処方してもらいた。

「副作用はありませんので」と自信に満ちた男性医師の言葉に内心驚きつつ、冷静に聞き流した。

避妊目的で服用していたサンドラが中学の頃から副作用に悩んでいたのを見てきたし、血栓による死亡リスクがあることも知っていた。

でも怒りを抑制するためならと、腹を括ったうえで受診していたのだ。

男性社会で生理を理由にせず、女として切磋琢磨に働くためにも必要な経費だと思って、お守りのように服用を続けた。

そんなある日、SNSのインボックスに、我が社で働かないかというメッセージが。香港の大手メディア会社の台湾支局から。

英字雑誌に記載された私の名前を見て、日英通訳及び新規事業の発足チームとしてヘッドハントされたらしい。

その頃、福島原発事故による放射能汚染が蔓延中。爆心地に近過ぎる東京では内部被曝を恐れず食べられるものが限られ、ノイローゼになっていた私は日本から一刻も早く脱出したいと思っていた。

年齢的にはワーキングホリデー最後のチャンス。

中国語圏で「親日派」と言われる台湾が第一候補だったが、メディア業界でのキャリアが義勢になることを懸念し足踏みしていたので、正に渡りに船。

二つ返事でオファーを受けましたが、優太に報告した途端、遠距離になることに気づき、泣き崩れてしまった。

優太はそんな私を両手で支えてくれた。優太はいつも優しすぎる。

約2ヶ月後の年明けに台湾へ移住し、まもなく勤務が始まった。

待遇は良くても、それに見合うかわからないほど仕事はハード。

指示が明確でないことを棚に上げて部下に文句をいう上司。挙げ句の果てには其奴から猥褻な質問がチャットで送られてきた。

英語しか話せない上司と日本人チーム間の通訳も兼ねて雇われていましたが、私は口論の後、承諾を得てその役割から降りた。日本語と英語が少しできる台湾人が代わりに通訳することで、私は通常の業務に集中できましたが激務なことには変わりない。

家ではベッドに横たわりながら優太とビデオ通話。話すことがなくなった後も、お互いの生活音から存在を感じられるように、電源が切れるまで繋げながら、私は涙を静かに流していた。

入社約1年後、これまでに経験したことのない酷い偏頭痛が数ヶ月続いていた。私は頭痛になることが滅多になく、寝れば治るタイプだったが、この頭痛は寝ても治らず連日続く。脳みそにへばりついたようなネットリとした鈍い痛みで、明らかに様子がおかしい。

当時、ニュース記事をCGアニメにしてYouTubeなどで発信する業務をしていたのだが、ネタ探し中に「ヤーズ(YAZ)を服用し急死する女性が続出」と伝えるネット記事を偶然、発見した。

その報道をしているのは日本ではmixiニュースだけだったが、英語圏ではヤーズを作っているバイエル製薬が裁判沙汰になるほど社会問題になっていた。

自分の症状と酷似していたので、服用を辞めてみたら頭痛はピタッとなくなった。

原因不明の症状から解放された安堵と同時に、社会的な成功と比例して虚無感が肥大化する我が人生が苦しみの果てで終了していたかもしれないという恐ろしさを覚えた。

死は覚悟していたくらいなので、命が惜しいわけではない。ただ死ぬ時までも苦しむのはごめんだし、このままでは早死できても後悔しか残らず死にきれない。

生き方を抜本的に変えないと、またすぐ同じような結果になることが想像できた。

正しいこととして教わってきたことをアンインストールして、潜在意識を塗り替えないと。

自然治癒力を促すことに趣をおいた生活習慣の改善や、古今東西の民間精神療法を手当たり次第に試し始めるきっかけとなった。

潜在意識を塗り替える

漢方・ヴィパッサナ瞑想編

思い返せば、低容量ピルは気休めにはなっていたけど、怒りが治っていた訳でも鬱が緩和した訳でもない。

台湾に越した後、優太に怒ることは一時的に減りましたが、私の怒りの矛先は周囲にいた職場の男性の一部に向いただけ。

「あの人はああゆう性格だから」とある同僚男性から陰口を言われていた。

どうやら私が「馬鹿なんじゃないの?」と言ったらしいのだ。
私は覚えていませんが、確かにその同僚の無能さを軽蔑していたので、心の声が漏れてしまったんだろうとおもいる。

全員にではないだが、尊敬できない男性には上司であれ見下し、強い口調になっていた。

でも私はもともと争いごとが苦手で、理不尽に怒られ続けても辛抱強く堪えるタイプ。自分でもどうしてしまったのか分からなかったが、「ああいう性格」と言われ、お前に何が分かるんだと思ってた。

薬の副作用が強過ぎる西洋医学とは対照的に、東洋医学の漢方は効いているのか分かりにくい印象があった。

けれど、何かを服用していないと不安でたまらなかったので、藁をもすがる思いで漢方を始めた。

台湾では漢方薬局がそこら中にあり、私は健康保険に入っていたので通院は安く済みた。

漢方医は私の手首を指で軽く抑えて心拍を測り、舌の状態を確認し、1週間分の漢方を処方。

問診だけでなく、体の状態を五感で確認したうえで、私個人に合わせて調合してくれたことに感動した。

即効性は案の定なかったが、生活習慣が自然に改善されたのには驚きた。

1日3回食前に白湯と飲むという処方だっため、忙しすぎて疎かになっていた食生活を、宅食サービスの利用で取り戻すことができた。

次に挑んだのが、ヴィパッサナ瞑想。

10日間、毎朝4時から夜9時まで(朝食、昼食、午後のお茶、夜の法話以外)ひたすら瞑想する合宿だ。

世界中で開催されているが、すべてのセンターでスマホは初日に没収され、会話をすることも、目を合わせることも、メモを取ることも、本を読むことも禁じられている。

ヴィパッサナのことを初めて知ったのは5年前。

大学を卒業するための学費に全貯金が消えましたが、世界旅という夢を形だけでも叶えるために、地球を一周するピースボートに船上ボランティア通訳として参加した時のことだ。

船上で仲良くなれた女性から瞑想リトリートのことを教えてもらい、興味をそそられた。ただその頃の私はまだ、まとまった休みが取れたら、未知な場所へ現実逃避したいと思っていた。

しかし地球一周の船に乗せられても、国内外を自足で放浪しても結局、心の奥底にある暗い何かが消えずに悶々としていることが鮮明になるばかり。

景色は異国情緒に溢れていて、確かに遠くまできたはずなのに、私はなぜいつものようにいつまでも虚しいのだろう。

今いる場所からは一時的に逃げたつもりになれても、自分自身からは逃げられないという壁にぶち当たった。

ならば自分の中に潜ってみよう。それには瞑想だ、とようやく思えたのだ。

いざ台中にある瞑想合宿を予約しようとしたら、予想外にも大人気なようで、キャンセル待ちしかできないとのこと。

事務局からのメールの結びに“be happy”とあり、喧嘩を売ってんのか!?と逆撫でされた気分になり余計イライラした。

待つこと約60日間、瞑想合宿に空きが出た。

会場は自然豊かで静かな場所。

薄暗い広間に座布団が一定間隔に置かれていて、他の参加者と同じようにその上であぐらをかきながら、私はうたた寝ばかりしてた。

寝てばかりでは意味がないじゃないかとツッコミながら睡魔と闘いる。

朝と昼は白米と味の薄い野菜のスープなどを頂き、夕方はお茶と果物。

毎晩、指導者ゴエンカ氏の法話を録画したビデオを見る時間が唯一の楽しみだったが、ミャンマー(ビルマ)訛りの英語が聞き取りづらく3割くらいしか理解できません。

束の間の休憩時間、近くに座っていた白人女性が、よく文句を言ってきた。

「ヴィパッサナは素晴らしいと仲間から噂に聞いてきたけど、退屈すぎて辛い」

その人は9日目の雨が上がりの日に飛びた。

私からしてみれば幼少期の退屈さに比べたらなんてことない。

閃きもあった。

ある日とつぜん、片目から涙が流れたのだ。

無感情だったので、あくびのときに出る類いだと思いる。

頬をゆっくりと伝っていく、痒いような肌の感触を観察した。

涙はすぐに拭いたり啜ったりしてきたけど、流しっぱなしにしたら、どうなるんだろう。今度やってみよう……。

不信もあった。

質問がある場合は、古参の瞑想者(アシスタント・ティーチャー/AT)と面談ができるので尋ねてみた。

「私は、過去と現在の怒りが掛け算になって爆発し、コントロールが効かなくなっていると思うんだが、これも無常で、いずれはなくなったりするものなのでしょうか」

そうだと想像通りの答えを言ったATの言葉を私はどうしても信じられません。

リゼルグ酸ジエチルアミド前編

入社2年半目の夏、リストラにあった。

仕事も板についてきてやり甲斐も感じられるようになっていましたが、心も体も悲鳴を上げていた。

夏でもダウンを着込まずにはいられないほど私にはクーラーが効き過ぎた極寒オフィス、夜勤が数ヶ月ごとに回ってくる24時間体制シフト、ミーティングや締め切りが1日に何度もあるスケジュール、猥褻とパワハラ発言が多い上司複数人ともおさらば。

私はこれを期に台湾で最も美しい海岸があると言われる花蓮へ向かいた。

ある4人家族との再会も兼ねた旅。

彼らとは前年、台湾で初めて行われたバーニングマン系列のイベント※で出会いた。

※バーニングマンはアメリカ・ネバダ州ブラックロック砂漠で毎年秋に1週間ほど開催される祭典だが、その後、参加者がそれぞれの地域や国にその経験を持ち帰り、振り返るディコンプレッションという行事だ。

現代社会のアンチテーゼ的要素を含むバーニングマンは、私が小学生の頃から憧れていて、死ぬ前に一度は参加すると決めている自己表現の実験場でもありる。

ディコンプレッションでは流石に同類の人が多い印象を受けましたが、私は相変わらず一人遊びをしていた。

私が登っていた木から落ちそうになったのを助けてくれたのがザックというアメリカ人男性で、台湾人女性のディヴァインとの間に男女の小さい子供が2人いた。

彼らの家の最寄り駅に着き、迎えにきてくれたザックのバイクの後ろに跨るやいなや聞かれた。
Have you ever done acid?

つづき(有料)

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有料部分①もくじ

潜在意識を塗り替える
・リゼルグ酸ジエチルアミド後編
・アヤワスカ編
・イボガ編
・チャンガ編
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メディア王と言論の自由

約3ヶ月間にわたるオーストラリアでの迷走を経た私は、東京にいる優太の元に一旦帰りましたが、翌月には京都にいた。

台湾でお世話になったジミ氏から連絡があったからだ。

京都の街並みは歩いてるだけで和み、東京より品質が格段に高い和食が手頃にいただける食事処が多い一方、歩いてると日本語より外国語を耳にするからか、京都人の英語力が高さには感心した。

ただ言動の端々に感じられる棘というか、裏表の激しさも気になった。

落ち着く街並みと、住人たちの殺伐とした空気が表裏一体だとすると、心穏やかに暮らせるかはさておき、一時的に訪れるには魅力的な街であることには違いない。

そんな京都市内で桜や紅葉の名所にもなってるのに、人気が少ない静かなエリアにジミ氏の別荘はあった。

ジミ氏との出会いは台湾で働き始めた頃。

会社の待遇がよく、勢いのあるジャンルのプロジェクトに携わっていたため、飼い慣らされた同僚たちが鼻につき、私は余計に「いつでも辞めてやる」という心境。

その頃、親会社である香港大手メディアグループの創業者であるジミ氏が、新しく発足した私たちのチームに挨拶をしにきた。

会社の理念などを語られましたが、私には綺麗事にしか聞こえません。

「質問はありるか?」と聞かれた際、手を挙げたのは私だけ。

「視聴者がほぼ中年男性なのだが、女性向けのコンテンツも増やした方がアクセス数も稼げると思うのだが……」

するとジミ氏は「うちではニッチなことをするつもりはない」と質問の途中に答えた。

はぁ?人口の約半分の性別に向けたコンテンツを増やすことのどこがニッチなんだか?今やってることはニッチじゃないわけ?

当時、PV数を増やす戦略として、性犯罪のニュースを過剰に取り上げ、中国人女優のプロモーション動画を積極的に配信していた。

全く納得いかなかったが、議論をする時間は設けられていません。

その後、ジミ氏の付き添いをしてた男性から「ジミがアナタのことを関心していましたよ」と聞き、るる意味がわからないと思いた。

数ヶ月後、香港にあるジミ氏の自宅に私だけ派遣された。

日本からお客さんが訪問するとのことで、日英通訳を頼まれたの。

到着すると、豪邸の螺旋階段からジミ氏の奥様が降りてきて出迎えてくれた。

壁の至るところに無数の絵画が飾られ、庭には孔雀が優雅に歩いていた。

朝食はお抱えシェフによるコース料理に、送迎はロールスロイス。

ヨットで香港湾をクルージングしながらランチビュッフェをいただき、夜は老舗レストランでフルコース。

小学生の息子さんは豪華な料理に見向きもせず、ずっとお絵描きしていた。

私は常にお腹が一杯で、胃が苦しい状態。それは私が通訳として最低だった証だ。

生理中で、ただでさえ全機能が低下してるのに、冷房が効きすぎた空調の中、円卓で自由に話す人々の会話に集中できず、自分の無能さを飲み込むように食べた。

状況が好ましくなかったことを差し引いても、自分は通訳に向いてないと悟った。

それなのに、ジミ氏は以降も度々台湾の別荘に私を招待し、私の食べっぷりを褒めた。

私は持ち芸を披露するかのように胃が苦しくなるまで応えた。

日本での再会は私がリストラされて以来、初めてのこと。

香港のシノワズリなご自宅や台湾のモダンな別荘とはまた違い、京都の邸宅は中庭で筧と巨大な蹲が鎮座し、侘び寂びを感じる風流な内装。

食事の後、私がトイレから戻ると、ジミ氏が「眠くなったからまた今度」と言った際、すでに着替えていた寝巻きが、前衛的なランウェイでしかお目にかかれないような穴だらけの白いTシャツだったことが衝撃。

世界中に5軒の豪邸を持つ大富豪になっても、そこまで着古す服ってあるんだと、親近感を覚えた。

そしてジミ氏の生い立ちの話を思い出した。元々は中国本土で極貧生活を送っていましたが、子供の頃に客からもらった一口のお菓子から、もっと広い世界があることを察し、貨物船に隠れて香港へ渡り、事業を成功させ、中国政府に対して異論を唱える唯一の中国メディアを築いてきたという過程を。

ジミ氏とはその後も何度か会い「君をサポートすることもできる」と言ってくれたことがあった。

私は何をどのようにサポートしてもらえばいいか分からず、気持ちを有り難く受け取った。

中国政府から自宅に爆弾を仕掛けられるなど度々ニュースにもなっていたジミ氏。香港デモで数年後に逮捕され、その勇敢な言動から、言論の自由を実践する勇気を与えられるとは、この頃の私は想像するすべもない。

日本の変態と自分

秋になり、通訳の依頼が入ったため東京に戻りた。

リストラされても、フリーランス(個人授業主)という肩書きは自分が辞めない限り残るという強みを感じた。

今回は日本のフェティシズムやエロチズムなどを含む性科学(sexology)についてフランス語で執筆し、著書は和訳もされてるスイス人学者のアグネスからの依頼。

アグネスとは変態的な性に特化した銀座の画廊で出逢いた。私がかつてBDSMなど性的にアンダーグラウンドのシーンに興味を持ち、英字雑誌の取材をしていた頃のことだ。

変態的な性を描いた絵画などに特化した銀座の画廊に通っていた際、アグネスと出逢いた。

アグネスの今回の研究テーマは、日本でラブドールなどに使われる多種多様な匂いのローション。

私は依頼がある度、彼女の関心事は特殊だと思っていた。が、海外では考えもつかないような性的な題材が日本は多過ぎるだけなんだと、徐々に気づいてゆきた。

私自身、変態的な性嗜好に好奇心を掻きたてられ、ハプニングバーでバイトをしていた時期もあるのでわかる気がする。

きっかけは中村うさぎさんのエッセイ『セックス放浪記』。彼女がハプニングバーという公然の場で性行為をした体験などが書かれていて衝撃を受けた。

私は1日で読破するとすぐに「日本最大」と謳っていた会員制のハプニングバーに応募した。

店のオーナーで国内外で活躍する緊縛師が面接してくれた隣の部屋からは女性客の激しい喘ぎ声が聞こえてきた。

面接の最後に「自分が変態だなと思うことは?」と聞かれた。

「私は幼い頃から芋虫が怖くて写真も見れないくらい苦手なんだけど、大の食いしん坊でもあるので、見た目は似ているけどナマコは大好物なんだ。だから虫が食材として見れたら克服できるかもと長年思っていた。で、昆虫食を普及する会の人たちと偶然出会った際に色々な昆虫の唐揚げを食べさせてもらったら想像以上に美味しかったので、虫への苦手意識が少し緩和した。」

「変態だね〜」と言われ、そうかなぁ?と思っていたら「じゃあいつから働ける?」と聞かれ、あっけなく採用された。

私の主な持ち場であるバーカウンターは、赤いカーペットと黒い壁を基調とした広いスペースに面していて、奥に3部屋の半個室の中まで見渡せた。

「警察が来たら照明を点けて、部屋の仕切りを下ろすスイッチを押して、裸の人に着ぐるみを配って……」

法に触れる要素が多いらしく、摘発時の対応から説明され緊張感を覚えた。

とはいえ初日は、緊縛用の縄を馬油で鞣すという地味な作業から始まった。

私は昼から夜9時までのシフトで、客入りは少ない方だったが、それでも色んな人が来店した。

「病院の地下で胎盤の刺身を醤油と山葵につけて食べてる。旨い。」と話す男性医師。

胎盤は人の臓器となるため、現代では医療廃棄物として処理することが義務付けられているが、原来は体力を回復するために妊婦が食べてきたものだ。こういうところでも女性の権利が男性に奪われている実態を学びた。

ポールダンスの練習をしにくる若いダンサーたちや、AV女優。

「自分よりSな男に会ったことがない」ことが悩みという女王様に連れられた巨漢の白人男性。

私も面白がってその男性に赤い低温蝋燭をかけてあげたら、後から「目を見ながらやってくれたことが嬉しかった」と恥ずかしそうに言われ、そういうものなんだと思いた。

連日カウンターの一番端に座りながら無言でゲームをする中年男性。

手の平を揉まれるだけで体をくねらせながら喘ぎ声を漏らす若い女性と、明らかに謎のテクニックを習得している若い男性。
甥っ子に性的なことをしていると照れながら話す、性犯罪臭のする中年女性。

カウンターで、連れの男性から肛門に遺物を入れられるところを見られにきた中年女性。

床に落ちていたその人の便をティッシュで拾った時「自分はやっぱりノーマルだ」と私は確信した。

小さい頃から「あんたは変わっている」「オカシイ」と母から言われてきましたが、私の周りには異次元レベルの変人が常にいたので自分は大したことないはずだ思っていた。

血管にジャックダニエルを注射してみたり、分厚いフックを背中に通して空中に吊らされるサスペンションをしたりする友人の話を聞くと、自分には提供できるネタがないと思わざるを得ません。

もし私ごときが変わっているなら、この人たちは一体なんと形容すればいいんだ? と本気で思っていた。

母や朋美ちゃんから同調圧力を受けてきたので、日本人たるもの個性を持つべからずなのかと思わされてきた。

けれど日本に来てからも、変わっていると思う人は大勢いるから、自分は別にそこまで変ではないと安心できた。

ピースボートのボランティア通訳に合格したため、ハプニングバーは一年も続きません。

後者の経歴は履歴書に加えたことは一度もありませんが、経験や視野を広げたという意味では他の仕事に引けを取ることはない。

冬の養生・補腎・土用

アグネスの通訳業務が終わった頃、新たなクライアントからの依頼が入った。

英字雑誌の元編集長でイギリス人男性のデイビッドだ。

彼はこの頃、ロンドンで雑誌作りをしていて、東京の特集を組むため、著名人へのインタビュー記事を依頼してきた。

このプロジェクトに関わった流れで、英字雑誌の元営業だったアカネさんから翻訳やバイリンガル記事の執筆も頼まれ始めた。

23歳から本格的に始めた通訳者・翻訳家としてのキャリアも10年が経った頃だが、お陰様でフリーランス一本で初めて月18万円を達成。

台湾で正社員をしていた頃の手取りよりは低いだが、個人授業主として専門職で食べているという感覚は、正社員やバイトとして稼ぐよりも自信がつきた。

ただ、締め切りが短かい依頼が多すぎて毎朝、目が覚めると首が痛くて起き上がれない状態になった。

寝ながらできるヨガの動画を真似して、ようやく体が動くようになる日々を送っていた。

秋を迎えた頃「冬の養生・補腎セミナー」というものに参加した。

主催者は、伊豆諸島のレイヴ(有料記事①チャンガ編)で出会った漢方医。

3日間のレイヴの終盤にはハメを外しすぎて生気を失ってるパーティピーポーに、活力が回復する漢方を売り歩いてた。1人だけめちゃめちゃ元気でキラキラしていたので私は彼のSNSをフォローしていた。

私は一年で最も苦手な冬の寒さと、それに伴う気分の落ち込みへの手立てをオーストラリアの旅以降(有料記事①チャンガ編)失い、路頭に迷っていた。

冬の養生なんて考えたこともなかったけれど、自分に必要だということは直感的にわかった。

セミナーでは初めて知ることばかりだったが、すべて腑に落ちた。

冬は心身を休めて、春・夏・秋に思いっきり遊べるためにエネルギーを溜め込む時期。

冬に冬眠、充電しないと春夏秋に調子を崩す。

少食を心がけ、早寝遅起き、夜10時には眠くなくても身体を横にするだけで体力を温存できる。

黒い食べ物を積極的に摂取し腎臓を補い、暖房に頼りすぎず身体を温める服装と飲食をする。

中でも四季の変わり目である「土用」という「五つ目の季節」の一つである「冬土用」期間は、一年で最も注意が必要。

1月下旬から立春までの新年を迎える直前に当たり「陰が極まる」ので、心身への負担が一最もかかりやすい18日間。

災いの元となるから、なるべく言葉を慎む方が良いとまで言われている。

春夏秋冬の間に年に4回訪れる土用の期間は、次の季節の準備期間。

心身を休め、大きな決断や行動は新しい季節になるまで待ちながら、地道な計画や準備などをコツコツと積み上げる。

なるほど、私は冬の養生や土用中にやってはならないことばかりをしてきたことがわかった。

私はこれまで365日年中無休、時には24時間営業。しかも地球上どこでも需要があれば飛んでいくスタイル。

物心つく前から家事を手伝いと母の癇癪に付き合いつつ、一刻も早く一人前の人間として認めてもらおうと10歳から父の店で働き始め、14歳からは週末や祝日は基本バイト。

日本に引っ越した後も、授業が無い時間帯は複数のバイトでスケジュールを徹底的に埋め込んでいた。

蕎麦屋は参道沿いにあったので毎年、大晦日から元旦は寝ている場合じゃない。

台湾でも24時間営業だったので数ヵ月置きに夜勤シフトが回ってきた。

個人授業主として経験を積むために仕事は断らない主義だったので、どんなに忙しくて大変でも依頼を受けてきた。

きっと本当は休んだ方が良かった時も、フル回転が通常運転のライフスタイルを33年間続けてきたの。

セミナーの後、漢方医のクリニックで診察してもらったら「気虚」「臨死状態」と診断された。

私は内心、大袈裟だなと嘲笑しながら、妙に安心もした。

それから「補腎」を意識した冬の養生を始め、冬の土用を慎ましく乗り越え、春を迎えた頃には心身が例年より安定しているのを実感した。

しかしこれは嵐の前の静けさにすぎません。

世界最古の医療アーユルヴェーダ

東洋医学の知恵を暮らしに取り入れているうちに、5000年の歴史を持つ世界最古でインド・スリランカ発祥の伝統医療「アーユルヴェーダ」もかじり始めた。

頭部にオイルを垂らされている特別なトリートメントを思い浮べぶ人もいるかもしれませんが、私が実践しているのは「ディナチャリア」という日常的なルーティーンで、アーユルヴェーダの基本だ。

まず体型や性格などか体質(ドーシャ)を調べ、それに合う食事や生活習慣を実践する。

例えば私の風と水の性質が優勢な「ヴァータ(風)・カパ(水)」体質で特に冷え易いため、身体を温める工夫が必要ということが分かったりする。

陰陽五行説に基づく「補腎」や「冬土用」に加えアーユルヴェーダの智恵も暮らしに取り入れ、はじめて地に足のついた冬を越すことができた。

再び歯車が狂い始めたのは3月のこと。

「一緒に海外行きたいなー」とのんちゃんからまた言われてしまった。

のんちゃんとは伊豆諸島でのレイヴで出会った時から、好意を寄せられているのはヒシヒシと感じていた。

その後、何回か会ったことがあり、唐突に「ねぇ、一緒にイタリア行かない?」などと誘われたことがあった。

でも私はどこかへ行きたかったら1人で行くし、この時は全く旅をしたい気分ではない。無事に冬を乗り切った達成感から、どこへ行かなくても満たされていたのだ。

でも「どこか行きたいとこはないの?」と聞かれ、正直に答えられません。せっかくできた友達を突き放すようなことを。

……行きたいところ、行きたいところ……強いて言えば、台湾?いや、台湾はまだ行ける気がしない……。アメリカの西海岸はずっと前から行きたかったけど、この人と一緒に行く場所ではない……。アーユルヴェーダのデトックス療法「パンチャカルマ」をいずれは受けてみたいと思っていたことを思い出し「んー……スリランカとか?」と適当なことを言ってしまった。

のんちゃんは目を輝かせて「スリランカ!いいね!一緒にスリランカ行きたいな!」と言った。

あーやばいやばいやばいやばい。相手のペースに飲み込まれる、この感じ。

相手の期待にズルズルと応えてしまういつものパターンに陥り、パンチャカルマを受けるためにスリランカへ一緒に行くことになってしまった。

気候はどんどん暖かくなって陽気が満ちてゆくのに、私の心は日に日に暗く重く病んでいく。

気合を入れようと、パンチャカルマについて予習しようとするが内容が入ってこず、ディナチャリアを続ける気さえ起こらない。

「スリランカでパンチャカルマ受けてみたいって思ってたじゃん。叶ってよかったじゃん」と頭の中の声に言われる。

そうだ、その時が来たんだから、楽しみに思わないと。

結局、6月中旬から7月上旬の21日間、アーユルヴェーダリゾートを予約。

けど全貯金30万円を使い果たしてしまうことになるので、悩みに悩んで直前にキャンセルしようかと思いた。けどキャンセルに約6万円がかかることになるのをしぶって、強行した。

コロンボ空港に到着し、活気のある市場を抜けて、安宿にチェックイン。

スマホの充電器が使えなかったので、街に繰り出すも、何がどこにあるか分からない。

まずは腹ごしらえに飲食店でカレーを頼みた。

店を出ると、白いシャツと黒いズボン姿のスリランカ人男性が英語で話しかけてきて、近くのホテルでバーテンダーをしていると言った。

充電器を買える場所を聞くと、男性はオート3輪の小型タクシー「トゥクトゥク」を呼び、電気屋に案内してくれた。

狭い店に男性客が数人いて、ちょっと高くない?という額の充電器代を払い店を出た。

トゥクトゥクで元の場所に戻ると、男性が握手を求めてから合唱してサンキューと言った。

宿で充電器を使ってみると壊れていて、怒りが込み上げた。

スリランカの約3週間の滞在は最悪なスタートを切りましたが、その後も低迷することになりる。

のんちゃんと落ち合い、2日目は安宿からアーユルヴェーダのリゾートホテルへ移動。

雑多な外界とは対照的に、敷地内は静かで、平坦に舗装された広い道をランドカーがゆっくりと進む。

前日スリランカ人に騙されたことによる人間不信から私の心は殺気立っている。

ビーチとプールを見下ろすツインベッドの客室に到着しても違和感を覚えた。

普段からドローカルなひとり旅を好む私なら、絶対に選ばないような場所。

朝8時頃から午後13時頃まであらゆるデトックスのトリートメントがあり、その後は自由時間。

心ここに有らずだったからか記憶は断片的。

まず良かったことは、ビュッフェが非常に充実していたこと。

連日でも飽きないレンズ豆のダルカレーに、マンゴスティンやランブータンなど好きな南国のフルーツが食べ放題。

毎食、食べ過ぎて胃が苦しいし、デトックスとしても好ましくないので、途中からおかわりを意識的に我慢したほど美味しかっただが、良い思い出はここまで。

ごま油のオイルマッサージが毎朝あるのだけれど、指圧が弱過ぎたり、強過ぎたりで下手な人ばかり。

中には毎回、砂粒を混ぜながらマッサージをしてくる人までいた。指摘したら、ワザとらしく驚くマネをしたと思ったら、大きなため息をつかれた。

台湾では手頃なマッサージでも上手な人が多かったけれど、アーユルヴェーダではこの全然気持ちよくないマッサージに効果があるのだろうかと謎。

でも後から指圧がちょうどいいベテランのマッサージ師に当たり、やはり自分の感覚がおかしい訳ではないことを確信した。

ベテランの方をできる限り指名しましたが、大勢のマッサージ師の中のほんの1人だったので毎日当たるとは限りません。

バーベリンという老舗リゾートだから選んだのだが、クオリティーは金額に見合うとは到底思えません。

さらに、のんちゃんが朝から晩まで止めどなく語りかけてきる。

最後の週だけ、内観したいのでなるべく話しかけないで欲しいとお願いしたほど、静かに過ごせる自分の時間が不足していた。

そうやって長い長い3週間がやっと終わった。

帰りの飛行機の中で、離れた席に座っていたのんちゃんから「食べる?」と差し出されたケンタの大きな紙袋を開けると、食べかけというよりも食べ残しというか、ポテトフライが3本がゴミの中に埋もれていた。

なんでこんな扱いを受けないとならないんだろう、と思いた。

その後もあちゃんからは何度も連絡がきていましたが、私は気づかないことにしていた。

そんなある日、自宅の近くでばったり会ったので、少しお話しした。

彼女は相変わらず明るく元気そう。でも私の頭の中から「ゴミ」の強烈な印象がどうしても拭いきれず、これ以上付き合ってあげる義理はないなと確信し、未読スルーを継続した。

大麻農園で働きたいけど

スリランカから戻った頃、父も帰省しているとのことだったので会って、悩み事を相談した。

今年の秋こそカリフォルニアの大……

つづき(有料)

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有料部分②もくじ

大麻農園で働きたいけど
・エメラルド・トライアングル冒険記
・オレゴン日食編
・グラスバリー編
・ノース・サン・ホワン前編
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ノース・サン・ホワン後編

こんな巨大な農園をいくつも牛耳っているニコラスの彼女は、一体どんな人なんだろう。女王蜂みたいな人を想像した。

でも、この年は会えません。会う努力さえしません。

というのも「ここにいてはいけない」という思いが強まっていたからだ。

ここにいても、私は他のトリマーの仕事を横取りしてしまうことになるし、シーズンも終わりに近づき、行くあてもない。

とにかく早く、ここを出ないとという強迫観念に駆られた。

そんな時、日食パーティーでお馴染みのタクから年末のパーティーに誘われた。

行くところができて安心した私は急遽「お世話になり増田。年末につき、そろそろお暇します。」という旨をニコラスに電話で伝えた。

農場から最寄りのバスまでは、ニコラスの右腕で弟のマルコが送ってくれた。来年はまたここに来たいという思いを伝え手を振った。


帰国した私は一旦、優太と同棲していたアパートに荷物を置き、年末の集まりに向かいた。

場所は、日本屈指のトランジッションタウン。

世界中にある環境破壊をしている従来の生活から、持続可能な生活に移行している町の一つで、誘ってくれたタカと彼女のナツのように波長が合う人が多く暮らしている。私もここに住みたいと思っていた。

車で地方を旅をしながら生活するのが夢だった私に、タカはもう使わないワゴン車を無料でくれると言ってくれたので、車険を払い、12月の中旬、寝袋ひとつで車中泊を試みた。

余りの寒さに耐えられず、時間を見るとまだ21時。

このままでは凍死すると思い、仕方なく電車に乗って、優太がいるアパートに帰った。

アパートは、大通り沿いにあって、昼も夜も自動車やバイクのエンジン音やパトカーのサイレンが鳴り響いている。

しかも南側にタワーマンションが二棟も立ち、日中は1時間しか日が当たらず、夜はマンションの街灯が明るすぎる。

それに優太は掃除をしないので、相変わらず、私が部屋を開けた分だけ汚れが溜まっている。

私はその空間にいるだけでイライラして、毎秒ブチギレては自己嫌悪を繰り返し、引越し先もなかなか見つからず、八方塞がりで鬱も悪化していた。

一念発起してオレゴンやカリフォルニアに行く前と全く同じ状況に戻っていたのだ。

「生理前に感情的になるっていうけど、生理関係なくない?いつも怒っていると思うけど。」優太から度々、言われていた。

生理前から調子が特に悪くなるのは確かなのだけれど、やはり根底にある母に対する嫌悪感をどうにかする必要があると思いた。

そんな中、田房永子さんの新刊コミックエッセイが転機となりる。

ゲシュタルト療法と封印された怒り

過保護・過干渉な母親に振り回されてきた田房永子さんのベストセラー『母がしんどい』を過去に読んだ時、自分の人生を代弁してもらっていると思うほど共感した。

キレる私をやめたい〜夫をグーで殴る妻をやめるまで〜』が発行された時、またもや私が今まさに悩んでいるテーマだと期待して読みましたが、その効果は想像以上のもの。

本書で、ゲシュタルトセラピーという心理療法を知り、私に必要なのはコレだと感じ、たまたま近日開催予定だったワークショップを予約した。

ワークショップには15人くらいが参加していて、公認心理士がゲシュタルト療法の概念や、ありのままを観察する練習を指導してくれた。

最後に1人だけ全員の前でセラピーを受けられる時間が設けられ、手を挙げた複数人でジャンケンしたら私が勝ちた。

公認心理士に向かって座り、質問されるままに答えた。

「私は、体罰をしてきた母に対して溜まっている怒りを彼氏にぶつけてしまっている気がして、どうにかしたいと思って参加した。母への怒りの原因を考えると、小さい頃から繰り返し見た悪夢を思い出します。」

「それはどんな悪夢ですか?」


下腹部に違和感を覚え、目が覚めた。真っ暗闇のなか、パンツの中で指先が蠢いている。その手は右側で眠っているはずの父の方から伸びいた。……お母さんと勘違いしているのかな……でも、お母さんのそこには毛が生えているよな……そうか、お父さんは寝ぼけているんだ……なら手を振り払えばいい。寝返りを打つフリをして母の方へ横向きになった瞬間、パンツの後ろを握り締められた。

背筋が凍った。

熟睡中のお母さんを起こしてはいけない気がして、でもここにい続けるわけにもいかない。なるべく静かに、でもなるべく素早くベッドから抜け出すと、寝室の斜向かいにあるトイレのレバーを下ろしていた。

ッジャーーーゴボゴボゴボゴボ

静寂を破る流水の音量にヒヤッとし、忍足で三段ベットの中段、普段の寝床に入り「この音でみんなが起きてしまいませんように……」と願いながら目を閉じた。

朝「お父さんにめごめごしてもらったんだって?よかったねぇ」と母に言われながらギュッと抱き寄せられた。


涙と鼻水が溢れ出ていましたが、ヴィパッサナ瞑想で決めたように、啜らず語り続けた。

「では、お父さんへの怒りを声にしてみて」と言われ、戸惑いた。

私は、この話が仮に事実だった場合、助けてくれなかった母に対する怒りに取り組みたかったので、想定外の指示に言葉が詰まった。

私の話、ちゃんと聞いてました?と一瞬苛立ちさえ覚えた。

仕方なく、仮に事実だった場合の父に怒りの言葉を言ってみようとしましたが、言葉が浮かびません。

そこで公認心理士が代わりに考えた怒りの言葉を私が復唱した。私自身が発声しているというのに、自分の声ではないような「無理やり言わされている感」があり、心地悪い感覚があった。

ワークショップ終了後、私は慌てて公認心理士の近くにいき面と向かって「でも、父から虐待を受けたと思ってないんだ」と言った。

公認心理士は一瞬だけ、目が点になって絶句。その一瞬の反応から、私は何かおかしなことを言ったのかもしれないと思わざるを得ません。

全く予想外な展開となったものの、初めて涙と鼻水をすすらずに垂れ流したからか気分もスッキリし、参加前より足元も軽く感じた。

父の弁護

いずれにせよ「ただの悪夢かもしれない」という疑惑はまだ晴れていない気がした。

そして仮に悪夢じゃなく事実であった場合、それは「性的虐待と言えるのか」「愛情表現と言えるのか」どう判断すればいいのかも定かではない。この3点を検証する必要が。

まず、事実として信じられなかった理由は、父による家族愛のアピールと、両親の仲が良いように見えていたからだ。

両親の夫婦喧嘩を私は見たことがなく、父は母のことを愛している旨を言動で表現していた。

夕飯の時、両親は向かい合って座り、話が絶えず、毎晩、同じベッドで寝ていた。

私のことも、両親が蜜月中に授かった「ハネムーンベイビー」だと父は頻繁に言っていた。

毎年ではないだが、父は国内外へ家族旅行にも連れてってくれた。

要するに、家族が大好きな父親像だったのだ。

そんな家族想いな父、母と仲良しの父、私を溺愛する父が、自らの手で娘の人生を意図的に狂わそうとするとは思えなかった。

一方で……

つづく『犯免狂子(中)』

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