⚠︎ネタバレ注意
清一がお母さんの介護をし、最後を見届けて、死んだ直後から開放感を味わってるところや、老人になって母親の顔が思い出せなくなっているくだりなんかは、同じ毒親育ちでも自分とは全然違うなと当たり前なことを感じた。
私はそもそも両親と絶縁してるし、親の介護は断固拒否するし、両親が死んでも開放感を味わうどころかモヤモヤは続くだろうし、ボケて親の顔こそ思い出せなくなっても、嫌な感じは一生忘れないだろう。
最終話に近づくにつれ、共感度は低くなっていったけど、私がどんだけ大変だったのか、そして今も大変なのかを、清一くんの言動から浮き彫りにされた感覚はある。
大変さの度合いに差をつけるのは愚かだけど、私の場合はあんなに穏やかに収まる気がしない。
一番違和感を覚えたのは夢の中でお母さんが「私はずっと、清一のことを愛していたよ」と言った時に清一が驚いた後に二人が和むところ。
言葉ではいくらでも言えるし、本当に愛していたんだろうけど、結局行動が伴っていないことが多々あって、子供をその歪んだ「愛情表現」の中で無自覚に傷つけていることが問題なのに、なんか綺麗な話で終わってしまっているところが、問題の本質をついておらず、物足りなさを感じた。
押見修造さんがあとがきに「もうこれ以上描くことはない、というところでペンを置く事ができました。」と書いてあるのだから、本人にとっては問題ではなかったのだろう。
お母さんからの「愛していたよ」っていう言葉が欲しかったってことなのだろうか。
私の場合は、両親から「可愛い」と頻繁に言われていて、愛されていたはずなのに、私が自分の意見を主張した瞬間に手の平を返されていたので、混乱していた。
愛というものが本当にわからず、ただただ苦しいものと認識していた。
愛情があればどんな暴力も猥褻もして良いということになってしまうからだ。
それを苦しいと思う自分がおかしいのかと自責するしか辻褄を合わせることができなかった。子供の頃から大人になっても、ほんの数年前までは。
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