私が自分を大切にできてないのは、幸福感に対する抵抗(ブロック)によるものと感じる。これを解除する方法を考えていたら、自分の理想と現実に大きなギャップがあることに気づいた。
私の生きづらさの原因は、3~4歳から虐待し続けた両親にある。
一方で、この因果関係を立証し続けるために、幸福を感じられそうな選択を無意識的に避けている感覚も否めない。過去の不幸をバネに人生を謳歌している人々を見ると、そう感じることがあるのだ。
私だって22歳で実家を脱出して、35歳で両親の虐待を問いただし、絶交に至った現在まで、徐々に人生を好転させてきた。
が、「人生を謳歌している」という感覚からは程遠い。あらゆる精神症状が出るし、自分の潜在能力を発揮できていないことに落胆する。
例えば、好きな対象を全面的に応援する「推し活」や「オタク」のように、自分の好きなモノやコトを肯定し、欲求に忠実な行動をとることが難しい。
療養中の経済力では賄えないほど高額な嗜好だったり、現代の日本ではタブー性が極めて高くて語ることも困難な内容だったりする。
いずれも虐待育ちと深い関係があるため、子どもへの性的虐待について言語化することから始めている。でも自分の過去(家庭内の性犯罪など)が弟たちに迷惑をかけてしまう不安から、実名を伏せている。
何事においても胸を張って、私はこういう人間ですと言えないのは、幼児期から性被害を両親から全否定されてきたことと地続きで、相まって人格がいくつもある。
この現象をインナーチャイルド、多重人格、解離性障害など様々な呼び方があり、思考と感情と記憶がバラバラなことが多い。
人格を全員を尊重しないと自暴自棄が悪化するから、自分の中にある相反する意見をまんべんなく受け止めないとならない。
そのために利用している電話相談員に様々な声を聞いてもらっていたら、人格の1人が聞き覚えのあることを言った。
「親のせいで子どもが精神を病んでいたら、親は我が子の成長を手柄にできない。自分が不幸でいることで、親に復習してるんだ。親は子どもの成長を喜ぶものだから。」
今回新たに気づいたのは、「親は子どもの成長を喜ぶものだ」という前提が、あくまで私の理想であり、現実と大きくズレているということ。
私の両親には、我が子の成長を喜ぶ器がなかった。「良い大学を卒業したかどうか」「職種」など上っ面なことには執着したが、子どもの「気持ち」や「考え」など内面的なことに対しては無視するか、否定するか、頭ごなしに批判してきた。子どもを、性欲の吐口、八つ当たり、見栄を張るための道具として扱ってきた。
私が彼らの犯罪を問いただした際も、否定も謝罪もせず、責任転嫁ばかり。彼らには自分達の「育て方」に深刻な問題があったと認めることができなかった。
娘の私が幸せだろうが、不幸せだろうが、彼らにはどうでもいいこと。幸せなら自分達の手柄だと思い、自分達のせいで不幸だと知っても責任転換。私が最も軽蔑する類。
親だから、嘘で騙されていたから、威張っているから、暴力を振るわれていたから、仕方なく従って、自分の感覚を押し殺した日々が戻らないことが悔しい。
この恨み憎しみは言葉では表現できない。私は両親に心底苦しんで欲しい。もっと深く、常に、永遠に、もがき苦しめばいい。自らの命を絶て。一番痛みと苦しみが伴う方法でお互いの命を消し合え。死んだ後も成仏するこなく、苦しみ続けろ。このように願っている人格も自分の中には生きている。
ここまで書いた後に「憎しみ」で検索してヒットした動画に、私が言わんとしていることが語られていた。
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