「六本木にある、寿司の最高峰が頂ける名店」
といえばその名を知らない美食家は少ないだろう。
一見の客はもちろん予約が取れないがこの度、幸運の女神に微笑まれ、一生の思い出になった素晴らしいひとときの余韻に浸っている。
さて、鮨さいとうのおまかせ(肴6品、握り10巻、味噌汁とご飯物、太巻きと玉子)計20品を振り返えろう。
香箱蟹(Female Snow Crab)
甘酢で優しく味付けした蟹の卵とほぐし身でサッパリとスタート。
「幻の日本酒」と言われている新潟の「鄙願(ひがん)」1を別途注文。
水のようにクセがなく、強いて言えば辛口。
「淡麗」という言葉が一番しっくりくる、初めて頂く味。
驚くほど主張しないので、和食の繊細な味を邪魔しないのだろう。
その名も和食にあう究極の日本酒を作りたいという『悲願』から二十年がかりで造られた2のだとか。
シャコ(Mantis Shrimp)
甘じょっぱく煮付けられ、山椒の葉が爽やかなアクセントに。
鱈の白子(Cod Milt)
白子ポン酢。
コレですよコレ!という安心するお味。
別のお寿司屋さんで先日、出汁に浸った白子が出され、
料理としての締まりがなくてポッカーンとしてしまった。
そして「ポン酢と紅葉おろしで出してくれ〜!」と
心の中で叫んだのを思い出した。
それだけに、鮨さいとうさんで願いが叶い、喜びもひとしおだった。
鰹のタタキ(Seared Bonito)
さっぱりした身を口にした後、パッと香ばしい奥深さが追ってきて、
板前さんが先ほど背の部分を炭火焼きにしていたことを思い出した。
ほんのひと手間によって広がる余韻の持続に感動する。
蛸の柔らか煮 (Simmered Octopus)
タコがこれほどまでに柔らかくなることと、
皮のゼラチン質のプルプル度合いに驚きました。
粋な器も愉しみのひとつ。
穴子の白焼き(Grilled Seawater Eel)
珍しい食べ方ができて嬉しい、コースで一番気に入った一品。
鰻は必ず白焼を頼むほど白焼好きな私ですが、穴子の白焼は初めて。
穴子の皮の部分にいくほど弾力が感じられ、
ワサビと梅と混ぜたものをチョンと乗せてサッパリといただく。
私は「鰻も穴子も断然、白焼派なんだな」と、自分の好みをより深く知るきっかけになり、思い出深い一品となりました。
鰤(Mature Yellowtail)
トロンと溶ける旨さ。
飲み込むのが惜しいほど、噛むほど甘い。
その日、カウンター8人席の半分が英語を話す中国人だったので、
元通訳の私は「鰤とハマチとカンパチの違い」を説明をする機会があった。
しかし「成長過程での大きさによって呼び名が変わる」という
ざっくりとしたことしか説明できなくて、悔しかった。
元通訳として、また食いしん坊として。
それは私が「ナゼ呼び名が変わるのか」を理解していなかったから。
帰宅して調べたら、ハマチもカンパチも成長し切ると鰤になり、
成長するほど脂が乗り、旨味も増すから値も上がることを知った。
成長段階によって全く違う魚を食べているかのような感覚が得られるために、名前がいつくも存在することが理解できた。
味覚で何となく把握していたことが語源化でき、市場価値の変化も学んだことにより、鰤に対する理解が深まり、通訳としての自信もついた。
次回、同じ説明を求められた際には丁寧な説明ができるように、英文の別記事で説明文を書いた。
こはだ(Gizzard Shad)
光り物好きな私ですが、コハダに関しては、その醍醐味がまだよくわかっていない。
多分、脂の乗りが控えめで淡白だから、物足りなく感じてしまうんだと思うのだが、今回同席した中国人の方が「コハダが一番好き」と言ったのを聞いて「通だな〜、言ってみたいな〜」と羨ましく思った。
その方は、「コハダが出世魚だ」ということを知っていたのだが、私は考えたこともなかった。
調べたら、コハダも出世魚だけれど、鰤と違って、成長するにつれて値段が落ちるという。
それは、コハダが大きくなると、寿司ネタにしたときに模様が綺麗に見えないことや、小骨も太くなるかららしい。
出世魚、いや寿司ネタとしての魚の奥深さに脱帽する。
食べたことがあるからと知ったつもりになっていただけで、実は知らないことが沢山あるのだ。
鈍っていた好奇心を優しく刺激し、消化した後まで楽しく学ぶことができるのも、最高の料理のお陰だ。
赤身(Lean Tuna from Ooma, Aomori)
大間の本鮪。
中トロ(Medium-Fatty Tuna)
中トロの脂のマーブル状の乗り方が特に美しく、二度見三度見してしまった。
大トロ(Fatty Tuna)
スミイカ(Cuttlefish)
胴体が長細いツツイカはsquid、
丸いコウイカはcuttlefishと区別する。
車海老(Tiger Prawn)
ミソの辺りが特に美味。
私は、牡丹海老の食感が好みなので、旬である3~4月に再訪しなければ。
鰯(Sardine)
ネタで一二を争うほど鰯が好き、だからこそ厳しめな評価になってしまうが、塩が気持ち効きすぎていた。
味噌汁(Miso Soup)
馬糞雲丹とイクラ丼(Sea Urchin and Salmon Roe on Rice)
イクラの粒が一回り大きく感じた。
白だしで漬けているのか、本来の淡い色が目にも優しい。
隣の席の人が「後何品出るんですか?」と聞いて、残り3品と知った際、「え、もう終わってしまうの」と思わず声が出てしまった。
それを聞いた主催者が「おかわりすればいいよ」と言ってくださったのだけど、足りないと文句を言いたかったのではなく、「この幸せな時間がもう終盤に差し掛かっているのだと改めて知り寂しく感じる」という意味だったのだが、その旨を伝えることもできず、一層切なくなった。
穴子(Seawater Eel)
太巻き (Thick Sushi Roll)
穴子、車海老、玉子、椎茸、胡瓜の太巻き。
口入れると解けるような感覚は、シャリの量が最小限にとどめられているからなのだろうか。
細い胡瓜に入れられた隠し包丁に技を感じた。
ただ濃い目に味付けされた椎茸の量を減らした方が、全体のバランスが良くなると思った。
ちなみに、私が太巻きの具材で一番好きなのは、〈山牛蒡〉と〈ほうれん草〉。
太巻きってどうしても甘めになりがちだから、ほうれん草の瑞々しさにホッとさせられる。
また、全体的に柔らかいから、噛み応えがある山牛蒡が入っているだけで、ぐんと立体的になるから好きなのだ。
玉子(Omelet)
冷んやりプルンとした最早デザート。
穴子、太巻き、と甘いものが続き、いよいよ玉子が来ると、蛍の光が流れるような寂しさを感じた。
結論
「ずっとこんな寿司を求めていた」
鮨さいとう初訪問にも関わらず、久しぶりに再会できたような、不思議な感覚がある。
今まで経験してきた感動的な和食体験の断片を凝縮した2時間のようでありながら、期待を上回る独自の感動も満載だった。
一口一口に手間ひまを感じ、素材が持つ潜在力を引き出す直向きさ、シンプルで定番な調理法であるほど発見があり「参りました!」と謙虚にならざる得ない味覚を。
鰈(Flounder)
サッパリと淡白にスタート。
噛めば噛むほど、赤酢のシャリの甘さを感じる。
寿司とは、「シャリ」と「ネタ」を合わせたもので、
旨い寿司の秘訣はシャリにあり。
「シャリのバランスが寿司において9割の重要度を占める」という。
シャリは硬すぎても柔らかすぎても、大きすぎても小さすぎても、塩や酢が多くても少なくてもダメ。砂糖を使う店もあるそうだが、同店では塩と赤酢のみ使用。
では、ネタと合わせた時のバランスが計算されたシャリはどういうものなのか。
それを理解するためにシャリだけを食べさせていただき、驚いた。
シャリだけの場合、塩味を強く感じる。
ネタと一緒に食べた時に感じた甘さがない。
寿司として食べた時と同じシャリであることに驚いた。
旨い寿司を決める残りの要素はネタの「切り方」だという。
厚すぎても薄すぎてもダメで、丁度いい厚みである必要がある。
ネタがいくら良くとも、この二つが揃っていないと台無しということ。
鰤(Mature Yellowtail)
トロンと溶ける旨さ。
飲み込むのが惜しいほど、噛むほど甘い。
その日、カウンター8人席の半分が英語を話す中国人だったので、
元通訳の私は「鰤とハマチとカンパチの違い」を説明をする機会があった。
しかし「成長過程での大きさによって呼び名が変わる」という
ざっくりとしたことしか説明できなくて、悔しかった。
元通訳として、また食いしん坊として。
それは私が「ナゼ呼び名が変わるのか」を理解していなかったから。
帰宅して調べたら、ハマチもカンパチも成長し切ると鰤になり、
成長するほど脂が乗り、旨味も増すから値も上がることを知った。
成長段階によって全く違う魚を食べているかのような感覚が得られるために、名前がいつくも存在することが理解できた。
味覚で何となく把握していたことが語源化でき、市場価値の変化も学んだことにより、鰤に対する理解が深まり、通訳としての自信もついた。
次回、同じ説明を求められた際には丁寧な説明ができるように、英文の別記事で説明文を書いた。
こはだ(Gizzard Shad)
光り物好きな私ですが、コハダに関しては、その醍醐味がまだよくわかっていない。
多分、脂の乗りが控えめで淡白だから、物足りなく感じてしまうんだと思うのだが、今回同席した中国人の方が「コハダが一番好き」と言ったのを聞いて「通だな〜、言ってみたいな〜」と羨ましく思った。
その方は、「コハダが出世魚だ」ということを知っていたのだが、私は考えたこともなかった。
調べたら、コハダも出世魚だけれど、鰤と違って、成長するにつれて値段が落ちるという。
それは、コハダが大きくなると、寿司ネタにしたときに模様が綺麗に見えないことや、小骨も太くなるかららしい。
出世魚、いや寿司ネタとしての魚の奥深さに脱帽する。
食べたことがあるからと知ったつもりになっていただけで、実は知らないことが沢山あるのだ。
鈍っていた好奇心を優しく刺激し、消化した後まで楽しく学ぶことができるのも、最高の料理のお陰だ。
赤身(Lean Tuna from Ooma, Aomori)
大間の本鮪。
中トロ(Medium-Fatty Tuna)
脂のマーブル状の脂の乗り方が特に美しく、二度見三度見してしまった。
大トロ(Fatty Tuna)
スミイカ(Cuttlefish)
胴体が長細いツツイカはsquid、
丸いコウイカはcuttlefishと区別する。
車海老(Tiger Prawn)
ミソの辺りが特に美味。
私は、牡丹海老の食感が好みなので、旬である3~4月に再訪しなければ。
鰯(Sardine)
ネタで一二を争うほど鰯が好き。だからこそ厳しめな評価になってしまうが、塩が気持ち効きすぎていた。
味噌汁(Miso Soup)
馬糞雲丹とイクラ丼(Sea Urchin and Salmon Roe on Rice)
イクラの粒が一回り大きく感じた。
白だしで漬けているのか、本来の淡い色が目にも優しい。
隣の席の人が「後何品出るんですか?」と聞いた。今此処に全集中している私には耳障りな質問だった。
残り3品と知った際、「え、もう終わってしまうの」と思わず声が出てしまった。
それを聞いた主催者が「おかわりすればいいよ」と言ってくださったのだけど、私は「この幸せな時間がもう終盤に差し掛かっているのだと改めて知り寂しく感じる」という意味で言ったのだった。その旨を伝えることもできず、一層切なくなった。
穴子(Seawater Eel)
太巻き (Thick Sushi Roll)
穴子、車海老、玉子、椎茸、胡瓜の太巻き。
口入れると解けるような感覚は、シャリの量が最小限にとどめられているからなのだろうか。
細い胡瓜に入れられた隠し包丁に技を感じた。
ただ濃い目に味付けされた椎茸の量を減らした方が、全体のバランスが良くなると思った。
ちなみに、私が太巻きの具材で一番好きなのは、〈山牛蒡〉と〈ほうれん草〉。
太巻きってどうしても甘めになりがちだから、ほうれん草の瑞々しさにホッとさせられる。
また、全体的に柔らかいから、噛み応えがある山牛蒡が入っているだけで、ぐんと立体的になるから好きなのだ。
玉子(Omelet)
冷んやりプルンとした最早デザート。
穴子、太巻き、と甘いものが続き、いよいよ玉子が来ると、蛍の光が流れるような寂しさを感じた。
結論
「ずっとこんな寿司を求めていた」
鮨さいとう初訪問にも関わらず、久しぶりに再会できたような、不思議な感覚がある。
今まで経験してきた感動的な和食体験の断片を凝縮した2時間のようでありながら、期待を上回る独自の感動も満載だった。
一口一口に手間ひまを感じ、素材が持つ潜在力を引き出す直向きさ、シンプルで定番な調理法であるほど発見があり「参りました!」と謙虚にならざる得ない味覚を。
私の家系は代々飲食業だったこともあり、乳幼児の頃から刺身やら珍味やらを惜しみなく与えられていたお陰で、子供の頃から素材の旨味を感じられるものには目がない。
どんなに複雑な味や食感でも、素材特有の醍醐味を感じられる味覚は本来、老若男女誰しにも備わっている。なのに、子どもの頃から精製された砂糖や塩、化学調味料や香料を使った粗末なものを抵抗なく食べさせられている人があまりにも多い。大人になってから知り、悲しく思う。
無知は怖い。
私の両親は、食育に関しては超優秀だったが、虐待が酷かった。でも私は「他の家庭より明らかに美味いものを食べさせてもらっていて、恵まれているから、不満を持ってはいけない」と思おうとしてきた。心の空洞を食べ物で埋めようとしてきた。あるいは仕事で埋めようとしてきた。
でも、今なら分かる。体に良い物を子どもの頃から与えていたことは尊敬に値するけれど、子供の声を無視し、心と体を侵害する行為は、決して許されることではない。
両親に対して感謝できることがあるからと言って、親の言動を全て受け入れる必要はない。
私は、両親から受けてきた虐待を許すことができず、親から与えられた良いことも素直に感謝できないところがあった。だから本来は、自分の研ぎ澄まされた味覚に見合う品質の食事のためにもっと自己投資しても良かったのだが、躊躇していた。
だから、鮨さいとうレベルの寿司を頂く許可を、自分自身に下せるまでに約40年の歳月がかかったのだと思う。
大好物である寿司の最高峰を食べてしまったら、それを味わえる味覚に育ててくれた両親に感謝せざるを得なくなり、すると彼らの犯罪までも許さなくてはならなくなるような強迫観念が潜在意識で働いていたように感じる。
虐待による精神疾患により自己肯定感が低く、自分が本当は何がしたのか分からない時代を経て、やっぱり和食の中でも寿司が一番好きであることは否定できなかった。
時間やお金の使い方、自分の意思さえコントロールが難しい中、妥協して一万円台の寿司を頂いたりしてきたが、毎回ガッカリしてきた。
とうとう「せっかく日本にいるのに、もう寿司でガッカリしたくない!最初の一口から最後の一口まで幸せな気持ちになれて感動できる寿司が食べたい!」「1万円台のマズイ寿司を4回食べるくらいなら、一回4万円以上してもいいから旨い寿司を一度でもいいから食べさせろー!」と痺れを切らしていた。
しかし、名店は予約がとにかく取りづらい。そんなジレンマを解決してくれたのが今回の奇跡の会。
私は翌月40歳になる。年齢は数字でしかないけど、景気づけのためにもこの接目に、自分のお金で一切の妥協ない選択として、極上の寿司が食べたいと願った。
後悔だけはしたくないから、経験値の最も高い食通たちが口を揃えて旨いと唸る店に行くしか選択肢はなかった。
一回の食事に4万円以上の値段は、私のような超低所得者にとっては身分相応でない贅沢に聞こえるかもしれない。でも実は考え方によってはメチャクチャ良心的だということも体験してから実感した。
1万円台の寿司で美味しいネタが一つしかないと、一口1万円だが、鮨さいとうのように20品目全て美味しいと、一口2000円。
物価高で今回のおまかせコースも数ヶ月前までは3万円だったことを考えても、指を咥えたままだとインフレの観点からも損だし、円安を考え始めると安過ぎる。
しかも、諭吉を握りしてめていただけではいつまで経っても極上の寿司は食べられない。
本当に旨いと支持されている店は、美食家たちが足しげく通っていて、一見の客を呼び込まなくても成立する。
支援してくれてきた常連さんとの信頼性を維持するために、紹介や同伴でない限り一見の客を無闇に受け入れることができないのは当たり前だろう。
お金に余裕はあるけどコネがない人には、予約が優先的にできるサイトも月額5,000円程で存在する。
私も試しに会員になったことがあるけど、月に一回くらいしかない予約開始時刻にはカレンダー上の空きがある日にちが猛スピードで埋まっていく。プレミアム会員の人たちが優先的に席を抑えるから、会員になっても争奪戦は免れない。
しかし、こんなに和食の中でも特に寿司が好物な私が、最高峰の寿司を食べないで何してんの?って話である。
みんな様々な趣味に課金して大金注ぎ込んでいるけど、私の趣味は言ってしまえば、旬のものを食べること。
好きなことに使わないで何に使ってきたの?ってことになる。
振り返れば、他人のためには何十万、何百万円も使ってきた。
自分が本当に必要なもの、欲しいものが分からなかったから。
でも、私は成長すると決めた。
人生の後半は、私がやりたいことしかしない。
失われた子供時代と青春時代を取り戻す。
昔から両親に縛られてきたから、今も自分で自分を縛ってしまう癖がある。
けど、今回の体験で気づいた。
私は今までに何度でも最高の寿司を体験する機会があったということを。
お金はあった。時間もあった。最高なものを堪能できる味覚もあった。
ただ、自分で自分を楽しませる許可をくだせなかっただけなんだ。
数日前の私と今の私の違いは、自分が心の底から望んでいたことを実行したこと。
でも今日までアンテナを張っていた自分のことも認めてあげないとなとも思う。
今までは今日のための下準備の期間だったんだと思えば無駄な時間はない。
世間では、歳をとることに対してマイナスなイメージを持つ人の方が多いという印象を私は受ける。
でも、私は両親と過ごした日々が極端に酷すぎたからか、当時ほどは酷くはならないのかなと思えるからなのか、歳を重ねるほど、人生が好転しているように感じる。
一生の思い出づくりになったわけだが、私の寿司への愛は今更ながら再加熱している。
一生に一回でも経験できれば幸せだと思っていたけど、味をしめてしまったからには、年に一回は鮨さいとうレベルの一流の寿司を食べたいという欲が出た。
素直に言えば、年に4回、新しい季節に一回づつは食べたい。
というのは、寿司を始めとする和食を堪能することは、私の趣味であるから。
どんな逆行にも立ち向かわせてくれる、生きる希望を与えてくれることだから。
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