己の性別に違和感を感じさせられること。
セクシャル・ハラスメント(性被害)。
これらにはジェンダーバイアスという問題が根底にある。
ジェンダーバイヤスとは「女・男はこうあるべき」という社会的な固定概念のことで、個人の認識と必ずしも一致しない。
だから人間はその狭間で混乱し苦しむのだ。が、多様性が認められる社会であったら、性別に違和感を感じることも、そのことで苦しむこともないはずだ。
性被害を受けたり・加えたりすることも減るだろう。
ペス山ポピーさんの自伝コミックエッセイ『女(じぶん)の体をゆるすまで』には、そのようなことを考えさせられる。
私も自分の性別というか、周りに押し付けられてきたジェンダーに違和覚えながら生きてきた。
正直、女に生まれてきたことをつい最近まで呪っていたし、自分が嫌いな原因でもあった。今も不利を感じることは多々あり、その度に憤りを感じて爆発してしまう。
自分のことは中性的と自覚しているが、客観的にみたら一見「男」であるのは他人の反応から伺える(女子トイレに出入りする時、他の女性利用者に悲鳴を挙げさせてしまったり、夜の繁華街ではキャバクラなどのキャッチにつきまとわれたりする)。
しかし「女の体をゆるす」という感覚は私の中になかったので、どういうことなのか?と好奇心が湧いた。
同時に、私も女である自分を受け入れられようになるヒントがあるかもしれないと思ってサンプルをAmazonで読んでみた。
作者が7年前の職場で受けていた性被害(セクシャルハラスメント)の加害者X氏に向けて当時の心境をチャットで聞き出すところから始まり、臨場感がある。
ペス山さんはX氏に「感謝の一方で当時の先生の言動には大変傷つきました」というメッセージを送った。
この時点でどういう展開になるのか気になってしょうがない。自己紹介に切り替わって、当時受けた性被害(セクハラ)の詳細が描かれる。
恐ろしい内容で、私は読み進めながら今まで自分の身に降りかかった幾多の性被害を思い出さずにはいられなかった。
ペス山さんの心の声は、私が自分自身に言い聞かせてきた言葉と共通するものが多かった。
これはペス山さんの話であるのと同時に私自身の話であると思ったが、期待は命中した。
【以後ネタバレ注意】
加害者X氏へのアプローチの仕方や、加害者の心理を聞き出す姿勢によってペス山さんが成し遂げたことは容易なことではない。
私も幼少期からつい最近までの35年間以上、様々な性被害を受けてきたからわかるのだが、被害について加害者と対話することは非常に精神的に負担がかかることだ。できれば避けて一刻も早く記憶から抹消してしまいたい。
ペス山さんも当然ながら7年間避けてきた。だけど、その内容を作品にするに当たって、リスクを想定した編集部からそれを回避するために、相当理不尽な提案を受ける。
思い悩んだぺス山さんがフラッシュバックを起こしたある日、X氏に突撃。
そして納得するまで加害者の気持ちを複数回、聞き出した。最終的には彼女が苦手とする、気持ちを正直に伝え「やれるだけやったので不満は残らなかった」そうだ。
私は過去、一部の加害者と対話をする途中で、怒りに負けて何度も投げ出した。
相手の無神経で理不尽な言葉に二次被害を受けるのは、傷口をえぐられるとこと等しく、耐え難いことだ。
しかし彼らと絶縁したところで、心のシコリは消えない。もう少し自分が冷静になって話すことができていたら、私の気持ちを理解してもらえたかもしれない。
自分自身が癒されるだけでなく、被害者が増えないことに貢献できたかも。私も加害者の心理が理解できたかもしれない(憎しみを増加させなくて済んだかも)などと後悔するのだ。
加害者との対話はする必要はない(著者もおすすめしていない)けど、やるなら焦りは禁物ということだけは汲み取った。
自分の心の準備ができていたら、相手や場合によっては、対話が可能かもしれないということがわかっただけでも、気持ちに余裕が持てた。
X氏は意外にもあっさりと加害を認め謝罪をする。
言い訳をする口調や感謝の言葉を浴びせて丸く収めようとするズルさも垣間見せつつ、言動を改めた理由の本音は結局「社会通念」というものが変わったからであるとペル山さんは悟る。
曰く、7年でX氏の行動を変えたのは、「被害者やX氏自身の痛みや苦しみや倫理や道徳でない。社則次第。」(下巻)
「社会通念」という単語は上巻に既に出てくる。
ぺス山さんの、7年前に受けた性被害のことを当時「もし訴えたらどうなっていたんでしょうか」という問いに弁護士は「勝てなかったと思います」としたうえで「今だったら勝てる」可能性があると言った。
今と7年前では「社会通念が変わった」からだという。
損害賠償裁判でよくある交通事故とセクハラを比較した場合の例が挙げられる。
交通事故の場合は、怪我をさせたら損害賠償が認められるのは当たり前、とされるので検討する必要はない。
しかし、セクハラやパワハラの場合は、みんなの意見がバラバラで時代によって変わり、当たり前が在しないので、ここが争点になる、ということらしい。
セクハラやパワハラも悪いのは当たり前だが、みんなの意見がバラバラになりがちという点に関しては「社会通念」以外にも言える要因が多くあると思う。
森田ゆりの著書『子どもへの性的虐待』に書かれている「性的虐待の持つ特別な困難性」は
①対応さる側の性に対する怠避や恐れ
②目に見える物証がないことが多い
③何が起きたかは加害者と被害者しか知らない場合が多い
④性的虐待順応症候群
⑤対応する側の態勢の圧倒的な不備
⑥性暴力への社会の偏見と誤解。
とにかく、社会通念を変えたのはMeTooなど「SNSなどでの告発があって、本題が表面化してきたこと」もあるそうだ。
万が一被害受けたら、辛いことをひとりで抱え込んで苦しみを増加させずに、まずは信頼できる人に話を聞いてもらう必要がある。
被害を訴えることは、社会の認識を変えることにつながる。黙ってひとりで苦しまなくていいんだ、と改めて思った。
ペス山さんはこの後、自身の性自認について考え直すことになった。「男よりとか中性じゃなくて、 “女だけど女が嫌”なのかもしれない」と。
しかし、きっかけがあって性別違和を感じるようになったワケではないそうだ。この点はやはり私とは違う。
私の場合、幼少期から女という性を嫌悪するようになったのは、明らかに女の方が不利だと感じていたからだ。
親は「女の子はかわいい」と言葉ではチヤホヤするくせに、少しでも意に反する発言を私がすると手の平を返したように人格否定し、体罰や精神的苦痛を加えてきた。
「『かわいい』とかどうでもいいだろう。かわいくなくても自由の方がよっぽどいい」と思ったのは、周りの男たちが、女の私には許されないことを平気でやっていたからだ。
今は男性には男性なりの辛さがあることも段々とわかってきたが、昔はどこかで「男性の行いが悪かったからツケが回ってきているのだ」という思考停止状態に落ち着いてしまっていたのは、自分の未熟さだと思う。
ペス山さんは「物心ついた時から女性ではない認識だけはあった」というが、これは幼い頃から「自分を持っていた」ということだ。
女・男の言動や役割は当たり前のように分かれている。世界のジェンダーギャップ・ランキングにおいても常に低い位の日本は、肌感でも著しい。
一人称や言葉遣いから制服まで、性別が個人のアイデンティティと密接につなげられる、要素が多い。
老若男女みんな一人称が「I」で敬語もない英語圏で私服を着て生まれ育った私にはそう見える。
日本の文化を否定するつもりはない。
ただ、せめて性教育は家庭や保育園から少しづつ取り入れた方がいいと思う。間違った性行為の仕方は巷に溢れかえってるから、「水着で隠れる大事なところ」「嫌だ」「やめて」「助けて」と言う言葉の共有から始めるとかいう基本的な話を共有できる関係性の構築とも言える。
ペス山さんの性別違和に、社会の一方的な性差別の強要が拍車をかけ、心身ともに苦痛を加えた。
ペス山さんは自身の性別違和を「信じてもらえない」かもしれないことを不安に感じている場面もあった。
多様性を認めずに不健全な性差別で男女の隔たりを拡大させ、不必要な不安を煽る世の風潮がおかしいだけだ。
ペス山さんは一見少数派のように見えるが、周りに流されながら「普通」という錯覚の中で自分らしく生きているつもりになっている大多数人よりよっぽど人間らしいと思う。
ペス山さんは至って自然体で、そのままでいいんだ‼︎と応援する気持ちで読み進めた。
男女差別は根強い「社会通念」だ。これを壊していきながら、個人の違いを認めることが、己の幸福を尊重することにつながる。
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