『犯免狂子(中)』

自己紹介

父の性的逸脱行動歴

一方で、あの父なら、我が子の性器を勝手に弄ることを平気でやりかねないと思う節が仰山あることも否めなかった。

例えば、我が家にはイカガワシイ物が至る所にあった。

初めて発見したのは、確か幼稚園の頃。

嘘の種

帰宅すると、真っ白いホールケーキがダイニングテーブルの端に置かれていた。

思わず、ふんわり掛けられていたラップの隙間から、人差し指を入れた。

ホイップクリームを舐めたのも束の間、母の険しい声色に問いただされ、私はとっさに「ううん」と答えた。

ッパァーン!

「嘘つきに育てた覚えはありません!嘘は泥棒の始まり!」

頬を打たれたことより、母の反応にショックを受けた。

腕を掴まれたまま、早足で階段を上がっていく母に足並みを揃えるのに必死になっていると、ウォークインクローゼットに閉じ込められた。

真っ暗の中、泣き喚きながら、ドアを少しだけ開けたが、1階に戻っていった母が怖くて出らない。でも暗闇も怖いので、電気のスイッチを手探りでつけた。

雑多なクローゼット内を見渡すと、目線と同じ高さにあった棚の上に、布に覆われた物体が。

中身が少しだけ覗いていたので、布をめくる。すると現れたのは、こちらを見上げる苦しそうな表情の女性。下着姿の同じような女性の写真で埋め尽くされた雑誌が山積みになっていた。

お父さんのだ。

瞬時に悟り、涙がスーッと引いた。

私がやったことが悪いことで、言ったことが「嘘」なら、お父さんがやったことや言ったことは?

あの時、お母さんは「よかった」って言ってたけど……。

雑誌やマンガ

その雑誌は、その他の場所でも目に入るようになった。

例えば、お手洗いのトイレットペーパーの真下の床。『プレイボーイ』と書いてあり、常に新しい表紙に変わっていた。このトイレは、例のクローゼットの隣にあり、両親の寝室と子どもたちの寝室の間に位置していた。

両親の寝室の入り口付近にある父の机の一番下の深い引き出しの中にも似たような物が沢山入っていた。マンガもあった。真っ黒に塗りつぶされている非現実的な大きさの男性器で暴れまくる主人公らしき男性。異常者以外の何者にも見えなかった。

いつからか、この引き出しだけ片方がレールから外れた状態になっていた。開け閉めするには支障はなかった。ただ、その傾いた引き出しは外から見るだけでも痛々しく感じるようになった。

ビデオ

ビデオも沢山あった。父の店ではVHSのレンタルもしていたので。

日本のドラマやバラエティやアニメが大半でしたが、父の趣味のものあった。

両親の寝室、テレビ台の上にはビデオデッキがタワーのように積み上げられ常に起動していた。VHSを複製するためである。

立派な著作権侵害ですが、駐在員のお客さん達には大人気商品であり、我が家の収入源であった。

店の入り口の右手に壁一面のレンタルビデオ専用の棚があり、父の好物は一番下の段に10本ほど陳列していた。

白いラベルに印刷された黒文字タイトルが、ピンクの蛍光ペンでハイライトされているので一目でわかった。

母がワープロで作ったラベルに、ピンクの線を引くのは父の計らいだ。

ビデオ棚の向かい側にあるレジは私の持ち場でしたが、ある男性客がビデオを借りにくる時だけ突然、父が代わった。私は気を遣って、店の奥に引っ込んだ。

バカ殿や変なおじさん

男性お笑い芸人が「知能の低い殿様」として、女性複数人に上半身を露出させて、触ったりするバラエティ番組を家族揃って、両親の寝室で観ていた。

「一風変わった男性」として、女性がシャワーに入っている間などに部屋に侵入して、女性を怖がらせて喜んでいる映像も流れていた。

笑い声が画面の外から聞こえるので、自発的に笑えなくても「今は笑うタイミングなんだな」ということが、子どもでも無意識的に分かった。

目新しさからか、最初のうちは面白いと思ったが、変わり映えしない芸風に流石に飽きる。

そんなある日、父が同芸人のことを「しょうもないなぁ」と言いながらが失笑した。

「しょうもない」という感覚が父にもあったのかと驚いた。同時に、そのように感じながらも子どもにそのような映像を見せ続ける神経がどう結びづくのか不思議だった。

地下室

天気が優れない日、母と一緒に洗濯物を干していた地下のボイラー室も例外ではなかった。

乳房だけの画像と、英字の大文字9字の綴りがプリントされた鏡が木製の台にはめられている立派な盾が、棚の上部に無造作に立てかけられ埃を被っていた。

「なんであんなところにあんなものがおいてあるんだろう。お母さんはアレが気にならないのだろうか……。」と不思議で不思議でたまらなかった。

それはずっと、物心つく頃から実家を出た頃もあった。

綴りを大人になって調べてみたら、過激な猥褻表現を含む欧米の男性向けライフスタイル雑誌で、未成年も起用していたことで問題になっていたということが分かった。

発言

父は性体験を堂々と話していた。

誰かと会話していたというよりも、私に一方的に話していた気がする。

少なくとも幼い私の耳に内容が入ってくる距離で、食後のダイニングテーブルでのことが多かった。

父が若い時に、年上の女性から調教されたこと……。

バックバッカー時代、女を買い過ぎて、金欠になりホームレス同然になったこと……。

新婚の頃、性交を一日に3回求めたら、母から白い目をされたこと……。

母が父から望まない性交をされた時に授かったのが自分なのではないかと私は心配になった。

覗き

父は性行動も明け透けなことが多かった記憶がある。

私が小学校低学年だったある夏の日。

「もう!お父さんったらいやらしい!娘の胸を覗くなんて!」と母が突然、声を荒げた。

母が父を怒るという珍しい事態にびっくりした私が反射的に父の方に目をやると、父は罰が悪そうにやや俯き気味になりながら聞き取れない何かを発していた。

ノースリーブの隙間から、まだ発育もしていない私の一体何を父は見ていたのか。そんなことより遥かに衝撃だったのは、母が父のそのような行動に嫌悪感を覚える人だということが分かったことだった。

かと言って母は私に羽織を着せてくれるわけでもなく、鬱憤を晴らしただけでした。私は母のように気持ちを表現することもできず、何が起きているか分からないことにした。

露出

私はある頃から、1階の部屋を自分の寝室にした。

トイレと風呂場の斜向かいの位置にあり、毎晩、全裸の父が堂々と出入りするのが見えた。

一人前にドアを閉め切るなんて十年早いと思わされ、私の部屋のドアは常に開けっぴろげになっていた。

よくよく考えてみれば、十分な広さのある風呂場で着替えず、風呂場の外で服を脱ぎ、既に全裸になった状態で私の部屋を通り過ぎるのはやっぱり不自然だが、父らしいという意味では一貫していた。

妄想


コミュニティ・カレッジで出会って交際していた男性と部屋で話していたら、突然ドアが少しだけ開き、父が無言で顔を覗かせたかと思うと、ドアを半開きにしたまま立ち去っていったことがある。

ノックも声かけもできない父を恥ずかしいと思うだけでなく、一体何を妄想しながらドアを開けたのだろうと思っただけで、気持ち悪くなった。

自慰

この頃、父は事業に失敗し、一日中家でゴロゴロしていた。

家の正面玄関を開けて右手にあるリビングのど真ん中で父は毎日、横になりながらテレビを観ていたが、スエットパンツの中に必ず片手が突っ込まれている状態だった。

検索歴

父の行動が同性から見ても問題であると知ったのは、父の友人男性が発した言葉からだった。

父の友人のイケダさんが我が家に居候していた時、父に忠告したのだ。

「検索歴を奥さんが観たらマズいと思うから消しておいた方がいいよ。」

家族全員が共有していた一台のパソコンのことを言っていた。

父が何を検索していたか確認していませんが、文脈から直ぐに検討がついた。

私が進学のために実家を出て、日本に引っ越した後も、父の逸脱した行動は健在であった。

専門書店

父は、老人ホームにいる祖母の様子を見るために度々、訪日していた。

私が大学生の頃、父と神保町で落合い、近況報告をしながら歩いていた。なんの前触れもなく、雑居ビルのエレベーターに入る父の後についた。

どこに行くんだろうと思ったのも束の間、ドアが開いて一歩踏み出し、そこがどういう書店か瞬時に察したと同時に、父が気配を消した。

肌色や赤を過剰に使う異様でベタな世界観がムンムンと溢れ返っていてる空間。どういうつもり?どこへ行った?と疑問符が絶え間なく浮かび、目線をどこに向けたらいいかわからず、身をどこに置いていいのかわからず立ち尽くしていた。

間もなく何事もなかったかのように父が無言で現れ、一緒にエレベーターで降りた。

あまりにも唐突に奇妙なことが起きるので、自分の正気を疑ってしまうのだが、同じようなことがなん度も繰り返されると、現実と思わざるを得なくなってくる。でもその慣れを上回ることが起きる度、自分の感覚がやはり信じられなくなっていた。

「官能小説家」

大学時代、LinkedINに友達申請が来ていると思ったら父からだった。

FaceBookのビジネス版みたいなもので、肩書きや経歴をアピールするために利用されることが多いSNSだ。

父の肩書きとして「官能小説家」とだけ書かれていた。

何のアピール?と呆れ、見なかったことにした。

そして小学生の頃、父が仕事中に暇をみつけては書いていた原稿を見て観ぬふりをしていたことを思い出す。

母音と波線がムダに多用されているので、父親が隠れて観ているつもりの雑誌やマンガやビデオと同じような世界観、あるいは実体験か妄想が書かれているのだろう、とパッと目に入っただけでも容易に想像がついた。

父とは既にFaceBookでは繋がっていた。ある時から父が私のタイムラインに頻繁に投稿するようになり、私のページなのか父のページなのか分からない状態に。

プライバシー設定で閲覧や投稿に制限をかけたら、父から苦情を言われたので、仕方なく設定を戻した代わりにFacebookを開かなくなった。

男尊女卑

父は「女好き」なんだと思っていた。

中高生の頃、私の女友達の前ではご機嫌で、私の友達にFaceBookで承認されたことを浮かれて報告してきたほどだ。

一方、私の男友達の前ではムスッとし、男友達を家に入れたことを怒鳴られたことまである。

弟が性別問わず友達を呼んでも、歓迎していたのにだ。

私は自分が女に生まれてきてしまったことを憎んだ。

「女の子はやっぱり可愛い」と両親は言うが、私が意思表示した瞬間手の平を返すように全否定してくる。私は可愛くなくて全然いいから尊重されたかった。

失業したからといって毎日毎日、リビングのテレビの前でズボンに手を突っ込んだままの父が目障りだった。

私が「脱いだ服の籠が満タンになったら、洗濯機のところまで持って行って欲しい」と父に頼むと逆上された。

「なんでそんなことをしないとならないんだ」というようなことを言われた。

大黒柱が養ってやった女子どもから指図される筋合いはないとでも言うように。

しかし、母は家事育児、父の店の助手の他、パートもしていて、家でも外でも働いていた。

私も物心つく以前から、家事の手伝いや弟達の面倒を見ていたと母から聞いているし、10歳から週一で働き始め、年齢とともに勤務日数を増やし、学費も払い、家賃も入れていた。それでも自由に遊ばせてもらえず、門限を破る度に母から「信用できない」と言われた。暇を潰すため、父や伯父が吸うタバコのヤニで汚れた家中の壁を修繕した。ベロンと剥がれて見窄らしい壁を剥がして、パテで埋めて、ヤスリをかけ、ペンキを塗った。長年、目も当てられなかった壁を修繕するのは単純に気持ちがよかったし、信頼回復にもなるかもしれないと思いながらやっていた。ペンキも道具もちろん自腹を切って、無償でやっていた。

なのに、なぜ父は失業した途端「家では何もしなくてもいい」という発想になるのだろうか。お前はそんなに偉いのか。私達とどう違うのだ。

父の男尊女卑が親譲りだということは、祖父母の家で居候させてもらっていた頃に分かった。

祖母は、弟に対しては「男の人はすごいね〜」と何かと無条件に褒めちぎる。

私に対しては、何をしてもしなくても「女のくせに」が口癖。

祖母も女なのに「女のくせに」と言える思考回路が難解すぎた。

私が日本に越してすぐ、伯父が亡くなった後、祖父も亡くなり、葬式のために父が訪日した。

私が大学の勉強をしようと、土曜日に図書館に向かおうとしたら、父に止められた。

「階段に埃が溜まっている。掃除をしていきなさい。」

床に埃が溜まっていることを祖母から高圧的に注意されたことがあったので、私はたまには掃除をしていましたが、弟が掃除をしているのを観たことがなかった。

「勉強があるから、(弟の名前)に言って。まだ寝ているだろうけど。」

すると父は怒りだして、手を挙げた。出た。相手を言葉で説得できないと暴力に委ねる哀れな姿。

私は足早に通り抜けたので叩れることは免れたが、その後の記憶が抜けている。

ただ父が男尊女卑である疑惑が決定的に証明された日として印象に深く刻まれた。

ちなみに祖母から掃除が行き届いていないことを高圧的に注意されてから、私は積極的に掃除をしようとしてきた。

年寄りの手が届かないだろう重い家具の下や、狭いトイレの掃除。

でも私が掃除をしているのを見つけると「なんだい!私が掃除をしていないとでも言いたいのか!」と祖母は怒鳴った。

女の私は掃除をしてもしなくても怒られる。

男の弟は掃除をしてもしなくても褒められる。

食べても味がせず、満腹感も得られず、今まで40キロで安定していた体重が15キロ以上増え、生理が半年以上こなかった。

生理が来ないのは不幸中の幸いと思っていたが流石に少し心配になり、母に勧められた婦人科に行って薬を処方された。

薬で生理は直ぐに来たが、薬なしで生理がいつまで来ないか実験した方が、当時の精神状態をより的確に説明できたかもしれない。勿体無いことをした。

盗撮

大学を卒業した後、両親が引っ越したことを知らされた。

かつて両親が結婚式をあげた南国の島で、私を授かった縁の地。

その島の名前を明かしたら憧れの眼差し向けられるのが分かっているからこそ私は言いたくない。出身地も同じだ。

弟達はすぐに訪れていたが、私は数年後、台湾で会社員になった際にようやく訪問した。

なぜ訪れたのかは覚えていない。地元に住んでいてあまり会う機会がない弟と中間地点で合うことになった気がする。

両親が案内してくれた池で泳いだ。時差ぼけもあって、家に着くなり、私はベッドで寝落ちしてしまった。

すると母が部屋に入ってきて、シャワーも浴びないまま寝た私を怒鳴った。

私は成人になっても、万人が羨む南国の島に来ても、全く変わっていない状況に辟易した。

そして思い出した。母がテレビに釘付けになったまま、ギトギトした髪に手櫛を通して抜け毛を集めていたのを。己がシャワーに何日間も入っていなかったことを棚に上げて、私を怒鳴る資格がどこにあるのか。

両親が近くのビーチに案内してくれて、海亀がいるという浅瀬で泳いだ。

父は昔から趣味で写真を撮っていて、その時も一眼レフを持っていた。

撮った画像をファインダー越しに見せてもらっていると突然、私の尻が映った。
たまたま遠目に写ってしまっているのではない。私が潜る寸前に水面から尻だけが出ているわずかな瞬間がドアップで映っていた。

それにいち早く気づいた父は「あ、いけない」と言って、カメラを操作し始めた。

私は呆れて、言葉も出なかったが、実家に物心つく頃からあった分厚い写真アルバムのことがフラッシュバックした。

厚さ5、6センチ程あるハードカバーのアルバムは重量だけでなく、気持ちまでも重くさせるものだった。

このアルバムは各子どもに一冊づつあり、父が撮影した写真が厳選されている。

一見、親の愛情の象徴のようにも見えたけど、最初の数ページを開くたびに私はなんとも言えない複雑な気持ちになっていた。

新生児の私が母の腕の中にいる写真から始まる。祖父母達の腕の中にいる私もいる。

そして次に目を引くのが首が座ったばかりで、よだれを垂らしながら満面の笑みを浮かべている乳児。

物心つく頃から、その写真を見る度に「これが私?何がそんなに嬉しいんるんだろう。意味がわからない」と気味悪がっていた。

そしてそれに続く一連の写真が最も気持ち悪く、見なくて済むように、ページを飛ばした。

私の性器だけのドアップが数枚、角度を変えて写っているからだ。おそらく母が私のおむつを代えている時の写真である。

子ども頃から、この写真を一体、どのように受け止めればいいのか分からなかった。

父はこのアルバムを愛情込めて作ったつもりなのだろうが、そう思えば思うほど、気持ちが重くなった。でも嬉しいと思えない自分を受け入れることもできなかった。

これら父の性的逸脱行動に関する記憶は悪夢なんかでなく、記憶として確かに残っている。

なるべく多くの記憶を時系列順に振り返ってみたが、思い出したくない記憶はまだある……。

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